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東光寺の日々

東光寺の暮らしのなかから創作される、詩歌や散文。

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友人がくれた「チリ通信」4というレポートです

 2019年1月19日の東光寺の楽健法合宿で、ドキュメンタリ「世紀を刻んだ歌 人生よありがとう」を上映しましたが、昨日パン工房に、旧友のもと共同通信記者 国司和宏さんが、ABC放送で楽健寺の天然酵母パンの放映を偶然見たことから、パン工房へ訪ねてこられました。チリに二年間ボランティア活動で過ごされたとか、当時の経験をリポートした古い記事のコピーをくれました。
 あのドキュメンタリと重なって興味深く読ませていただきました。OCRしてアップします。


 チリ通信 4
 一九七三年九月十一日 そして当時の文化状況


        邦 三郎(国司 和宏)

 チリにとって9月はあらゆる意味で政治的な月だ。今から35年前の1973年9月11日、当時のサルバドール・アジェンデ(Salvador Allende)人民連含政権はアメリカ台衆国に後押しされたピノチェト将軍による軍事クーデターにより倒された。アジェンデは爆撃で炎上する大統領官邸(今もサンチアゴにあるモネダ宮)での銃撃戦の最申、自らの命を絶った。ちなみにことし六月二六日はアジヱンデ元大統領の生誕100年にあたり、チリ国内のみでなく、世界各地で記念イベントが行なわれたと聞く。
 アジェンデは「モネダ宮から私を生きたまま引きずり出すことは不可能だ」と公言、その散りざまも含めて支持者らだけでなく。さまざまなチリ人には象徴的存在として今なお記億に残っているように思える。
今でも毎年九月になると、サンチアゴ申心部かちそう遠くないところに位置し、アジェンデ元大統領やクーデタ)でギターを弾く手を打ち砕かれた上に虐殺された、当時民衆に人気があった歌手ビクトール・ハラ(Victor Jarra)らの墓があるセメンテリオ・ヘネラル墓地・に向かって行進する支持考らの姿が見られる。碁盤状に整然と区画されだこのとてつもなく広い墓地にはチリ歴代の大統領をはじめ、日本でも少・なからぬフアンがいる女佳歌手、ビオレッタ・パラ(Violeta Parra)らの著名人や処刑された政治犯、行方不明者の記念碑など有名無名人の墓がびっしりと並んでおり、土日ともなると、近くにこれまたた安さんある花屋から買った花を持った故人ゆかりの家族などがお参りする姿が見られる。民政移管後にこの墓地に移されたアジェシデ元大統領の墓には、常に支持者による献花が絶えないという。余談になるが私もことし六月、首都サンチァゴに出たついでに訪ねてピクトール・ハラの墓などを探し歩いて献花してきた。ざっと一回りするだけでゆうに一時間以上かかった。
 私自身はチリに来るまでチリという国についてはほとんど知らず、」1970年 にチリに社会主義政権があったという漠とした記億しかなく、アジエンデについて の名前を知っている程度の知識しかなかった。
 しかし去年秋、大阪で開かれたラテンアメリカ映画祭で上映され、私も初めて観たチリ映画「マチューカ」(Machuca)の中で死ぬ直前のアジェンデの演説シーンがあり、印象に残うている。「マチューカ」はなかなかすぐれた作品で、当時のチリの政治情勢を知る上でも非常に面白いので興味のある人にはお薦めし東い。チリ人にこの映画の話をするとほとんどの人が(若い人でさえ)知っていた。当時教育を受ける機会が少なかった先住民の(したがつて貧しい)子供を富裕層の子弟が通う伝統的な私立学校に入れて共に学び合う、いわぱ格差社会是正を図るという画期的な試みが行なわれたのも、アジェンデ社会主義政権があってこそ成り立った話だ。
 1970年、アメリ力大陸で初めて武力によらない自由選挙で誕生した社会主義政権(社会党などの統一戦線である人民連合( Unidad Poplar政権)は、世界的にもまた日本の左翼陣営の中では思い入れも込めて知っている人も多いことだろう。
 私はまだ見ていないが1980年代に日本でも公開された「サンチャゴに雨が降る」(IIuvia sobre santiago)では、アジェンデが四度目の大統領選で当選した時からタ)デターに至るまでの経過が描かれている。この社会主義政権を支えた当時のチリの文化状況を少し握り返つてみよう。
 こうした事柄に詳しい在チリ日本大使館専門調査員、高橋恒氏の分析によれば、アジェンデ政権の特筆すべき点は、それまで一握りのエリートたちにより独占されてきたチリの歴史において初めて社会アクターとしての「民衆」が公的な舞台に登場し、社会変革の主体となり得たということだ。
 高橋氏が最近、日智商工会議所会報に寄せた文章に副って話を進めてみたいと思う。
 それによれば、こうした変革政策は特に、文化・教育分野において積極的に推進された。
アジェンデを個人的に知る多くの人たちは、彼を評して「真の教養人」と表現し、文学や音楽、演劇、絵画などをこよなく愛し、ユーモアのセンスに溢れた魅力的な人物であったという。
 そのような芸術への意識が:一九七0年の大統領選挙期間申:アジェンデに「文化を民衆の手に
取り戻す」ことを謁った宣言文の署名、発表へと駆り立てた。それ以前に同様の公約を掲げた大統領侯補は皆無だった。
アジェンデは大統領に就任するや積極的な文化政策を推し進めた。民衆側もそれに呼応し精力的な活動を実践していった。これらのアーティスト=「文化労働者」たちの功績により、・芸術を一部の富裕層が独占するという文化的閉塞状況に大きな風穴が開き、チリにおける「パプリック・アート」が一気に花を咲かせた。
そのひとつが「キマントウ」(Quilapayunマプーチェ詰で知恵の太陽の意)と名づけられた当蒔チリ有数の大手出版社の国家による株式購入・国営化だ。
 国内外の名作選、チリの偉人伝、雑誌、コミックなどおよそ1209万部出版し、1116万部の売り上げを記録した。当時の人口が1000万人に達していなかったというから驚くべき数字だ。「キマントウ」は民衆を対象としていたため、書籍類は道端の売店やガソリンスタンドなどでタバコ1箱程度の値段で売られたことが背景にあるのほ間違いないことだろう。
そしてもう一つが音楽における運動だ。「ヌエバ・カンシオン」(Nueva Cancion)運動として世界的にも知られることになったこの活動は、ラジオの普及を通じたアメリカの商業音楽の浸透によって深刻な危機に瀕していた民俗音楽をルーツに、ロックやフォークなどを飲み込んで自らのものとして吸収し,独自の音楽を生み出した。この新たな「チリ固有」の音楽運動は、その政治的メッセージと相まって当時のチリにおける象徴的な文化運動として話られることも多い。
 ヌエバ・カンシオンの主要アーティストには、ピクトール・ハラのほかインティ・イジマニ
(Inti Illmantu)、キラパジュン(Quilapayun)らがいる。ロス・ハイバス(Los Jaivas)というグループもそれに入れていいだろう。
 これらのアーティストたちほ、劇団やバレエ団らと協力しながら積極的にチリ全国を回ってコンサートやワークショツプを開催し、チリ固有の社会・習慣に根付いた音楽文化の普及に大きく貢献した。高橋氏によれば、同時にこうした音楽が特つその民族性、民衆性、メツセージ性という要素をべースにしたインパクトが強く、且つ魅力溢れたジヤケツト・デザインもチリ民衆芸術の発展を支えたという。しかしながら、9月11日の軍事クーデターにょりビクトール・ハラは虐殺され、その他のアーティストたちも他の中南米諸国などに亡命を余儀なくされた。
 アジェンデを巡る逸話のひとつにキューバ革命を起こしたチェ。ゲバラとの関係がある。
1959年に両者が初めて会見した時、ゲパラはアジェンデに自著の「ゲリラ戦争」を贈ったが、その著書にほ「私と違った手段で、しかし私と同じようなものを獲得しようとしているサルバドール・アジェンデヘ」と書いてあったという。確か年齢的にはアジェンデが20歳くらいゲパラより年上だったほずだが,革命への思いは共通していたのだろうか、輿昧探い話だ。
フィデル・カストロもアジェンデ政権時にチリ・サンチアゴを訪れており、一ケ月間ともに過ごしている。ちなみに「精霊の家」などの著者で知られるアメリカ台衆国在佳の作家、イサベル,アジェ
ンデはアジェンデの従兄弟の娘にあたる。しかしイサベルが幼いころ、父親が妻子を捨てて行方をくらまし、再婚した母親とチリを離れた彼女ほ実父の一族とは没交渉だったが、サルバドールだけは例外で親しく付き合っていたという。
ピノチェトの軍政下ではこうした文化運動の担い手たちは形を変えた抵抗運動を続けてその
年文化継承を目指した。
 翻って今日、伝銃的なチリ音楽は雛承されているとはいえ、巨大な商業主義音楽に飲み込まれざるを得ず、まだ高橋氏が概嘆しているようにチリの書籍類の価格は労働者の一般賃金に比較すると非常に高くなっていて庶民にほ手が届かない存在になつている。人々は紙や印刷の質が悪くとも安い「海賊版」で読書する現状があり、私もガルシア・マルケス作品を海賊版で買って読んでいる。
 さて、アジヱンデ政権時代の考察はひとまずここでおくとして話を今に戻そう。
 例年チリ共産党が主催する、サンティアゴ中心部からアジヱンデ大統領の墓地があるセメンテリオ・ヘネラル墓地への追悼行進は、ことしは9月14日一(日)に実施される予定で、最近では墓地周辺で多少の混乱が起きることが多いようだ。
 また例年9月4日から11日にかけて、サンティアゴ周辺部の貧困者が多く住む地区で夜間、公共物破壊やタイヤを燃やしての路上封鎖、あるいは電線に鎖を絡ませて停篭させるなどの事態が発生している。
昨日9月4日(木)には、サンティアゴ北部で未成年者を含む覆面グループによる破壊活動や警官との衝突が発生しており、チリ国内紙メルクリオのWeb二ユースにも掲載された。11日のみならず遇未の夜間にも、同様の混乱がサンテイアゴ局辺部の貧困者居住地区で発生することが予想されており、これまでのケースから一一日の日申にもサンティアゴ中心部の通称アラメダ通りでデモが行なわれた。
9月9日現在、火炎瓶製造法ピラ貼りをしていた三人が逮捕され、樋左グループとされる「マヌエル・ロドリゲス愛国戦線」は、道路封鎖をして取り締まる警察に力で対抗しようと呼ぴかけている。
  9月11日午前8時半から、大統領府前にあるアジェンデ大銃領の隻則で実施する追悼集会活動については、申請した政治,社会団休に許可が与えられた。
 今年は、軍事クーデターから35年という節日にも当り、例年より激しい政府への抗議活動が増えるという見方も予憩されている。
 こうした政治状況の中でピノチヱト軍政時に迫害され、空軍少将だった父親は殺され、自身は母親と共に外国に亡命するなどした経歴を持つミチェーレ・バチェーレ大統領はアジェンデと同じ社会党員でありまたチリ最初の女性大統領として今政権の座にある。
 任期をまだ二年余り残すバチェーレは2006年の大統領就任時の演説で「(内戦で国民同士が殺しあうといった)過ちを二度と繰り返さない、繁栄と公正で平等な将来を築こう」と述べた。
 53%と大統領選挙で圧勝し、人気の高かった同大統領だが、最近の政権支持率では不支持率がやや上回っている。(支持42%に対し、不支持46%)いまだにチリに根強く残るマチスモ(男性優位主義)なども手伝って、就任当初から女娃であることへのやっかみなどもあり、その政治的統治能力を疑問視する声は左右両派から上がったが、「国民の立派なリーダーだ」と評価する人たちが女性を中心にいて、その個人的な人気はまだ衰えてい攻いように思える。
 しかし、縮まらない貧富の格差、前政権時代の負産である悪評高い新交通システム問題や新教育法案、労働条件の改善、改正を求めてのストライキが続発するそのなどその前途にはけわしいものがある。左派グループには物足りなく思えるどちらかという穏健主義に徹しているパチェーレ大統領は、チャベス・ベネズエラ大統領ら申南米左派政権グループに引きずられることなく、独自の政治運営を心がけている。就任当時から好調だつたチリの銅景気にもややかげりが見え出してきた。最近では米やパン、ミルクなど生活物資がガソリン代とともに値上げされており、国民の生活を脅かし始めている。こうした中、就任時にチリ先住民の代表とも言えるマプーヂ・エとの話し含いで、彼らから要求されているマプーチェ族の議会創設や奪われた土地の返還、自己決定権の承認など歴代のチリ国家がマプドチェに負っている「歴史的負債」をどこまで責任を持って処理できるか。
 いたずらで性急な批判はひとまず置いて連続出馬が禁止されている残り二年の政権後半を、それなりに根強い勢力を持つ保守派や急進左派などへの対処を含めた複雑で困難な舵取りを私としてほ静がに見守っていきたいと思っている。チリは9月11日の後、18日が独立記念日、19日が国軍創設記念日で祝日となっていて、今街申はその祝費に含わせてあちこちで国旗掲揚や飾り付け用の木の枝が用意され、映画「マチューカ」で初めて見た大小のチリ国旗があちこちで売られている。
 12日には私が住むチリ中部の町でも市内の小申高校の生徒達による吹奏行進や民族舞踊「クエヵ」(cueca)が披露される祝賀行事が行なわれた。映画の中では・「バンデジヱーラ」「バンヂジェーラ」の売り声とともに左右両派のデモ隊にぺドロ・マチューカとその友ゴンサロ、そしてやや年上でおませな女友達シルバーナが必死に小旗を売り歩く姿が一年経った今でもほっきり思い出される。
映画では、社会主義の夢のひとつでもあったアジェンデの「統台国民学校」が、最後には政治的課題にまでなって、こうした傾向を嫌うアメリカ合衆国の思いなどで悲劇的なクーデターにつなっがていく様子が描かれている。設定では確かまだ一一歳・くらいのほずの少年たちがシルバーナと交わすキスが結構濃厚で色っぽく「チリの子供は早熟だなあ」なんていう思いで観ていたが、ここに佳んでいると日中から公園のべンチなどでキスしたり、抱き合っている少年少女も多く今もそれだけほ健在なのが分かる。二年後の大統領選挙で右派が勝とうが左派が勝とうが二度とあのような悲劇が起きないことを願って終わりとしたい。
9月11日は35年経った今でもチリ人の中には鮮明に生き続けている。
(この原稿は九月一二日に記す) (了)

 ここに掲載するに当たってメールで執筆時期などの追記を送っていただきました。

追記 2008年1月から2010年1月までの2年間。私の派遣先はチリ15州中の第8州で、南北に長いチリのちょうど真ん中辺りで、ロスアンヘレスという町にある県庁が職場でした。4万人くらいの街で大き過ぎず小さ過ぎずで、首都サンチアゴまでは約600キロちょい、高速バスで8時間ほど。人情味ある人たちが多く、住みやすかったです。11年間経った今でもアミーガ(女友達)、アミーゴ(男友達)とメール交友があり、忘れられない体験でした。

(編注 さらに詳しいアジェンデ政権時の文化達動については、チリ通信で触れた高橋恒氏の力作が日智商工会譲所発行の2008年8月号会報に掲載されている。
入手希望の人はメール amara-o@entelchile.net(に問い合わせればまだ残部があると思われる。

以下は月田秀子さんの歌う 人生よありがとう



参考になるWEB記事  人生よありがとう

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