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東光寺の日々

東光寺の暮らしのなかから創作される、詩歌や散文。

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徐京植の「フクシマ以後の生を考える」が抉るもの

詩人会議10月号の(ひうちいし)という欄に書いた原稿です。
掲載時は若干編集部の校閲が入っていますが、ここでは原文のまま掲載しました。

徐京植の「フクシマ以後の生を考える」が抉るもの            
                        
 
 フクシマが仮名書きされるのは、原発事故というあってはならぬことが起こって福島という地名の漢字が崩壊して再構築が不可となってしまったことを意味しているのだろう。そういえばヒロシマと仮名書きされるとき、世界初の原爆の被災地となって放射能に覆われた広島は、漢字が解体してしまって、ヒロシマという蜘蛛の糸のようなもので構築されているイメージを世界が抱くのかも知れない。徐京植のこのおはなしの深刻さは、単に原発事故という大事件が日本に起きたという深刻さを指して言われたものでなく、事件を事件でないかのごとく言いつのって日常のなかに埋没させてしまおうとする、日本人の思索の浅薄さに対する厳しい指摘である。思索しない日本人の性癖、過去を省みないであったこともなかったと言いつのる日本人の卑劣な島国根性を剔抉している。友人の元オートレーサーの中島光弘さんに詩人会議の徐京植のこのおはなしを読んでみたらと貸してあげたら以下の手紙を入れて返本してくれた。   「フクシマ以後の生を考える はとても深いとらえ方で驚きました。すごいものに触れて言葉にならない、というのが正直なところです。当たり前というか、本当のところに出会えた気がして、うれしさを感じながら読みました。ありがとうございました。」
 中島光弘さんはオートレーサーとして何度かの挫折と栄光を経験した人で、相手は敵ではなく好敵手という意識で人間を捉えているひとである。徐京植のこの文に書かれている日本人の生な姿は、隣国を敵視し侮蔑し、自己弁護に終始する日本人のぶざまさを思い知らされる。これを読んでショックを受けない日本人は島国に寄生する虫のようなものだ。


詩人会議10月号






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