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東光寺の日々

東光寺の暮らしのなかから創作される、詩歌や散文。

2019年07月 | ARCHIVE-SELECT | 2019年09月

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光 の 海 わが信仰への系譜 山内 宥厳


     光 の 海


      わが信仰への系譜 山内 宥厳




山 へ

母方の祖母のことを書く。徳島市の眉山という山の裾、佐古町に祖母日野ヨウ
の住んでいた二軒長屋のちいさな家があった。家の前に巾二米ほどの谷川があっ
て、コンクリート造りの平べったい橋がかかっていた。谷川に沿って百米ほど上
流に向えばすぐ山道で、登りかけた山道の右側は、水道の浄水場になっていて、
夜明ごろ、水道の余った水が放流され、きれいな水がこの谷川を駈け下った。山
の水は、すこし上流で伏流水になって地下へもぐってしまうので、普通は家の前
を水が流れるということはなかった。ヨウは夜が明けると、この山道を登ってい
く。七十九才にもなるのに驚くほど足が速くて、だれもヨウには追いつけない。
この家に住んで五十年にもなるだろう。雨さえ降らなければ必ず山に登って、
炊事用の薪や松葉を集め、季節の山菜などを採集してくる。ヨウは子供の頃から
山を愛してやまなかった。山はいつも彼女を呼んでいた。山へ入ると彼女は深い
やすらぎを覚えるのだった。山はヨウの母だった。ヨウの山へ登る目的はもう一
つあった。この山道は、眉山の頂上までは開けていなくて、下から見上げると、
中腹に天狗岩と呼ばれる巨大な一枚岩があって、そのあたりまで登ると、道はボ
サのなかに消えてしまう。ヨウは、この岩場に向って登ってゆくのである。岩の
上は三坪ほどの広さがあって、夜明け、ここに座って、日の出を拝むのが、ヨウ
が毎朝山へ登る、本当の目的である。ヨウの足で十数分登ると、谷を下る水の音
が聞こえてくる。谷川のちいさな水場が岩場のあちこちにあって、ここまで登る
と水が絶えることはない。ヨウはこの谷のいちばん大きい水場で、禊をする。
年中着物を着ているので、帯を解くと、腰巻ひとつ、これも脱いでかたわらの
岩の上に置くと、口をそそぎ、顔を洗い、全身を流す。からだを拭くのは、頭に
かぶってきた木綿の日本てぬぐいだ。 四季を通じて、この禊は欠かさない。
着物を着ける時、身も心もきゅっとひきしまる。表情も、普段のヨウのもので
はなく、声をかけるのがはばかられるような真面目な厳かなものに変る。
この水場から岩の上までは百米ほどだが、かなり険しい登りだ。この登りで、
ヨウは何度か巨大な蛇を見ている。普段何もないはずの道に、松の幹が横たわっ
ているのかと思うような、大蛇が寝ていて、ヨウは、出逢うと「気をつけて行き
なよ」と気さくに声をかけてやる。この山に入って、この蛇を見て熱を出しうわ
ごとを言いながら死んでしまった人も何人かいるということだ。ヨウが声をかけ
ると大蛇は頂上に向って行ってしまうという。岩場には、台所でお祀りするよう
な、ちいさな社が二つ、岩場の自然にできた棚のような凹みに安置されている。
ヨウが運んできてお祀りしているのだ。社には、ちいさなミニチュアの鳥居もあ
って、ここに岩川神社、名峰神社と書いてある。日が昇る少し前、ヨウはこの社
の前で、のりとをあげ、柏手を打ち、礼拝をする。日が昇ると太陽に向って礼拝
し、日想観にふける。陽に輝いたヨウの顔は神々しい。丸顔で柔和な表情は、だ
れからも好感をもたれる。もともと小太りだったが七十半ばを過ぎてから、さら
に太ったようだ。この頃から、ヨウの眼光は強く、深く澄んで、次第に霊能が開
かれてきて、神の語ることばが聞こえるようになった。自宅の玄関に近い六畳間
を、神様の部屋にして、祭壇を祀った。口伝えに、ヨウの予言や霊視が外れたこ
とのないのが評判になって、人々が大勢訪ずれるようになった。


ニアー・デス

ヨウは子供の時、一度死んだ経験をもつ人間である。
医学的には(near death)ニアー・デスといって、一旦死んだ筈だが、奇跡的
に生き返ることをいう。そんなことはめったにあることではない。
ヨウは淡路島の津名郡鳥飼村というところの、八幡神宮の神主の娘として明治
十三年に生まれた。米田という姓を名乗って、いまもその家系は続いている。
ヨウが七才の時、病気で妹が死亡した。妹の葬式の日、丁度さとうきびの収穫
の時機で、ヨウは、どうしたわけか、無性にさとうきびが食べたくなって、大人
の眼が届かないのをいいことに、鱈腹さとうきびをむさぼった。これが原因で、
ヨウは気分が悪くなって倒れてしまった。大人が気付いた時、ヨウは心臓もとま
り、呼吸もとまって、死亡していた。神主だった父親は、一日のうちに可愛いい
娘を二人も死なせて、悲嘆にくれたが、感応するところがあって、拝殿にこもり
娘の生命を、なんとか呼び戻して欲しいと、八幡神宮にお願いしたところ、千回
のりとを挙げよ、というお告げを頂いた。親類・縁者一同、拝殿で熱心に祈願を
続けたところ、ヨウはまる一日経ってから蘇生したのである。この時、ヨウはあ
の世を見てきた。ヨウが見てきた、あの世の話を、僕は何度も聞かされた。
美しいお花畑を、どこまでも歩いてゆくと、大きな川のほとりにでた。そこで
白髪の老人とヨウは出逢った。老人は、ヨウに向って、お前はまだここに来なく
ていいから、帰してあげよう、とヨウに言った。ヨウは好奇心が旺盛で、大勢の
人が川を渡るのを見て、川の向うに何があるのか知りたがった。白髪の老人は、
折角だから見せてあげようと言って、その場で、指をさして示した。老人の指差
す方を見ると、血の池や針の山で人々が苦しんでいる、地獄界の様子が見えたと
いう。別の方を指差すと、そこは極楽で、いい香りがただよっていて、なんとも
言えず、うっとりするような場所だった。ヨウが思わず、そちらへ歩いてゆこう
とすると背後から「ヨウちゃんよー!」と大勢の人が、自分を呼んでいる声がす
る。ふり返って呼び声の方へ歩き始めると、見えていた世界は消え失せて、やが
て父親の声、母親の声がはっきり聞こえてきた。目の前が白く、明るくなって目
を開けると、神官姿の父や、母、親類の人々がヨウを覗きこんで、うれし涙を流
していた。この事があってからヨウの右のこめかみの生え際に、直径二センチほ
どの禿ができた。何故、そんな禿ができたのか分らないが娘の頃、隠すことので
きないこの禿は、ヨウの心をいたく傷つけた。彼女は、この禿が原因で、一度も
ちあがった縁談を拒絶した。それが原因となって、ヨウは故郷をでて徳島で暮す
ようになったのである。


結 婚

ヨウはここで素人相撲の横綱で、和傘を製造販売している、日野筆太郎と結ば
れる。男の子ふたり娘がひとりの子宝を授かって、ヨウの人生は恵まれていた。
この娘が僕の母である。ヨウは、子供の時に、あの世を見てきたからか、並外れ
たところがあった。手先が器用で、針仕事をしても、人より三倍ははやく、着物
を一日に三着は造作なく仕上げた。彼女が畑の世話をすると、作物はよく育ち、
夏みかんなどでも、これが夏みかんかと思うほど、甘く香りが良くなった。近所
の店へ買物に行くと、ヨウの行ったあとは客の足が多くなって、どの店でも喜ば
れた。これは僕にも受けつがれているのか、僕が行ったら、たいてい店は混んで
きて、「山内さんはいつでも客を連れてきてくれる」とよく言われる。
ヨウが山へ行くと、小鳥たちが寄ってきて手を差しのべると、指にとまったり
する。神様のことばが聞こえるようになってから、身上相談が殺到した。原因不
明の病気の原因をぴたりと当てたり、生活苦や人間関係の不和など、問題は多岐
にわたったが、ヨウは簡明に、するべきことを教えた。祈祷とか、霊障を除くよ
うな話は一切なくて、その指導は実際的だった。人間の悩みを解決する鍵は、神
が握っているのではなく、本人が握っているのだと、ヨウは言った。人間の悩み
とは、それを解決するいく通りかの方法のなかから、これだ!と選 択できない
ところにある。ヨウは、それを選択してやるのである。あとは本人がそれを実行
するかどうかで、成否は決まる、とヨウは言う。大学受験についての相談で、国
立と私立とを併願すべきかどうか、などという相談を受けると併願の要なし、な
どと片付けてしまう。通ります、といい切る。それでも不安で併願した人はどち
らも失敗してしまって、ヨウのことばを信じてやった人は、一発で通ってしまう
のである。身内のものが、ヨウの解答ぶりを傍から見てると、はらはらするが、
その通りになってしまうので、神様のことばには間違いないな、と驚かざるを得
ない。僕はその頃、九人家族の長男で、アル中の父をかかえ、一家を支えるのに
必死だった。不就学児童で、赤貧洗うが如しの家計を、母の裁縫の賃仕事と、僕
の指物師としての収入で支えていた。ヨウはそんな僕にこう言った。お前の母は
お前の父と一緒になる時、わたしが苦労が絶えないから止しなさい、といったの
に、どんな苦労にも耐えるといって聞かなかった。こうなる事はわたしには分っ
ていた。お前にも苦労は絶えないが、お前に必要な苦労で逃れるすべはない。時
間はとても長くかかるが、頑張るしかないよ。将来西の方から、お前の生涯の伴
侶が現れて、お前の苦労が酬われる日が必ずくる。がんばりなさい。
 こうしてこの雑誌に書くことの縁を得て僕の守護霊としてついているヨウのこ
とばの意味が、たったいま分った。この綾なす人間の生かされている不思議な糸
を、これから解きほぐして、明かしていきたい。
かむながらたまちはえませ−−


    もらい風呂

 僕はそのひとが僕の祖母であることを祖父、筆太郎の死の日まで知らなかった
幼い頃の記憶は途切れているところが多いが、二才頃から、おぼろげに残って
いる。僕の最も幼い頃の記憶は、母に背負われてもらい風呂に行ったことや、南
京陥落の提灯行列を見に行ったことである。母に背負われていると、背中ですぐ
眠ってしまうので、母は「博之、もうすぐでよ。ホラ、提灯行列見てごらん」な
どと、僕をゆり起こすのである。家には内風呂がなかったので、銭湯や、もらい
風呂に行った。その頃は、もらい風呂などという風習はどこの土地でも見られた
のではないだろうか。近所の風呂のある家庭から「風呂に入りなさいよ」などと
声を掛けてくれるのは人情味を覚える光景であった。母は僕を連れて、家から三
分ほどの距離にある、高倉という武家屋敷へよくもらい風呂に行った。玄関を入
ると、正面に漢詩を書いた衝立が立ちはだかっていて、その陰からおばあさんが
僕より二才年上の英子ちゃんという可愛いい女の子と一緒に出迎えてくれた。
 英子ちゃんは甘えん坊で、そのおばあさんを独占しているらしく、おばあさん
はその子を、目のなかに入れても痛くないような溺愛ぶりだった。そのおばあさ
んがヨウだったが、僕は自分の祖母だとはつゆ知らず、英子ちゃんのおばあさん
だとばかり思いこんでいた。おばあさんは、やさしそうで、可愛がられている英
子ちゃんが羨ましかった。僕にもあんなおばあさんがいればいいのに、と思って
眺めていた。英子ちゃんは、いつも勝ち誇ったように、僕にはつんとしていて、
見せつけるようにおばあさんに甘えていた。座敷へ通ると、高倉のおじいさんが
いて挨拶をさせられた。小柄な老人で、いつも小さな机に向って書きものや読書
をしているらしかった。このおじいさんは、徳島駅の設計をした、えらい人だと
いうことだった。度のきつい金縁のつるめがねをかけていた。英子ちゃんは、こ
のおじいさんの膝にも座って甘えてみせた。風呂は五右衛門風呂で、窓の下の壁
ぎわに、蚊帳をぴんと張った、金魚すくいにでも使うような、直径三〇センチほ
どの網が置いてあった。僕はトンボ捕りが好きで、母に網をよくこしらえてもら
ったがこんな網ではなにも捕れないし、ながい間、その網の使用目的について、
風呂に入るたびに考えた。風呂のなかには小魚だっていはしないのに。母は膝に
僕をのっけて、石鹸でくるくると洗ってしまうと、肩までつかるように言い、数
を数えさせられた。百まで数えないと、あげてもらえないので、網のことはすぐ
に忘れてしまって聞くひまがなかった。ある日、どういう風の吹きまわしか、英
子ちゃんのおばあさんと、一緒に風呂に入ることになった。その日は英子ちゃん
は、出迎えにでなかった。おばあさんは、英子ちゃんはお父さんの転勤で富山へ
行ってしまった、と僕に話してくれた。おばあさんの躰は、母と違ってしなびて
いた。おばあさんは英子ちゃんにするように、ぼくを大切に扱ってくれたが、よ
その人だと思いこんでいたので僕は躰を固くしていた。その時、おばあさんに網
のことを聞いてみた。「湯垢をすくうのじゃ」と、おばあさんはこともなげに答
えてくれて、僕はなんだかがっかりしてしまったのを覚えている。


祖 父 の 死

 祖父の筆太郎が死んだのは、僕が四才の時である。祖父は和傘の製造販売をし
ていた人で、角力が強く、一時は素人横綱にもなったことがあるという。
 いつも和服を着て、鉈豆煙管を持ち歩いていた。家にくると黙って裏口から入
ってきて、南側の廊下に近い陽当りのいいところに坐った。きざみたばこを吸い
ながら、すこしふるえる手で、僕に一銭銅貨をくれる。「博之に小遣いをやって
も、おまえからもらえるようになるまでは、わしも生きてはおれないなあ」と、
必ず言うのだった。ヨウは高倉の家に通ったり、泊ったりしながら、祖父と暮し
ていたのだろう。祖父が病気になって寝込んでしまってからは、高倉家へ行かな
くなり、僕のもらい風呂もそこで終りになった。祖父が死んだのは、初夏だった
ように思う、丸い木製の座棺に祖父が入れられたのや、使っていた布団や畳を捨
てなくてはいけない、などと、母と祖母が話し合っていたのは覚えている。
 小形のバスのような、十人位は人が腰かけられる霊柩車に乗って、当時、東洋
一のながい橋だと言われていた吉野川大橋を渡って、阿波の十郎兵衛屋敷跡に近
い焼場に向った。僕の、それが自動車というものに乗った最初の記憶である。
 一番前の席で母の膝にのって、前方に目をこらしていた。吉野川大橋に差しか
かると、ながいながいトンネルのように、なかなか出口に近付かなかった。風の
強い日には、吹きとばされて下に落ちて死んだ人もいると母が話してくれた。
 前方に小さな丸い出口が見え始め、次第に大きく近付いてきて通り終ったとき
無性に感激した。


寝 物 語

祖父が死んでから、祖母は僕のものになった。祖母が淋しいだろうという母の
配慮だったかも知れないが、僕は夕方になると祖母の家に泊りに行くことになっ
た。その頃の僕の家族は、両親と姉、弟二人妹一人の七人家族だった。父は喘息
持ちで病弱のうえに酒が大好きだった。父は一月のうちに、半分位しか働けなか
ったが、腕が良くて、収入はきちんと休まず働いている職人よりは多かった。
しかし宵越しの金は持たない主義の浪費家で、いつでも必要が所有を上回って
いた。母は和裁を教えたり、仕立物をしたりして家計の足しにしていた。父は短
気で、怒りっぽく、こわい雷親父だったので、やさしい祖母のところへ泊りに行
くのは嬉しかった。祖母はふとんを干すのが好きらしくて家のふとんと違って、
祖母の木綿のふとんはいつもふかふかしていて、お日さまの匂いがしていた。
僕は冷え症で、よく家ではおねしょをしたが、祖母のところでは一度もしくじ
らなかった。祖母は躰が暖かくて、冷えきった僕の足をからだで暖めてくれなが
ら、寝物語に、歌舞伎の話を、浄瑠璃入りで聞かせてくれたり、淡路島のこと、
自分の生い立ち、父と母の出会いのことや、昔話まで聞かせてくれた。
とりわけ、七才の時にヨウが死んでしまって、曽祖父の祈祷によって生きかえ
った話は、僕の想像力をかきたてた。地獄や極楽のことについて、根ほり葉ほり
質問しては、自分がそこへ行って見てきたような気になり、満足するのだった。


闇 の 奥

 祖母の家の裏には竹薮があって、すこし風のある日は、葉ずれの音がして、少
年の僕には不気味に思えた。夜中に小便に起きると、電灯のない暗い便所に行か
なくてはならないのが、得も言えず恐ろしかった。僕が子供の頃は、便所という
ところは、妖怪変化のひそむ場所で、座敷の電灯がこぼれてくるわずかな明りの
下であわてて小便をして、ぶるっと身振るいをしたものである。祖母に地獄の話
を聞かされた夜などは、とてもひとりで便所になど行けず、用便を済ますまで、
便所の扉を開けたまま、祖母に外で待っていてもらうのであった。便所には闇が
あって、その闇を僕が覗くのではなく、闇のなかに、僕を凝視める何者かがきっ
といるのだった。都会の、なんの恐怖も覚えない、明るい水洗便所で育っては、
こんな気持を生涯知らないままになってしまう。僕はいまでも、夜中にトイレに
起きると、子供の頃の恐怖がよみがえってきて、あたりを見廻わしたりする。


  ラ ジ オ

ヨウは、僕が目を覚ました頃には、とっくに山から帰ってきて、裏の台所では
パチパチと松葉の燃える音がしている。僕と二人しか食べないのに、どうしてあ
んな大きな釜でご飯を炊くのだろう、などといぶかりながら、室内に流れてくる
薪の匂いと、すこし目にしみる煙ごしに僕は祖母のたち働く姿を飽きることなく
見ていた。ヨウは何をしても、てきぱきと素早かったし、することにそつがなか
った。家から四里も離れた、鳴門の海岸近くへ青のりを取りにいったりして、物
干竿にいっぱい干し、香りのいい青のりを切らしたことがなかった。近所の農家
の田植えや刈り入れにもよく頼まれて出かけていった。僕は祖母の傍にいるとや
すらぎを覚えた。ヨウは僕にとってふるさとだった。ヨウは遠い先祖に僕を繋ぐ
虹のかけ橋だった。山へ連れていってもらったり、芝居見物や菊人形などへもよ
く行ったが、祖母と行くとなにか啓発されるのである。僕はまもなく小学生にな
ろうとしていた。家にはラジオとレコードがあって、よくかけて聞いていたが、
ある時、ラジオの音楽を聴きながら、僕は、その音楽はラジオを通してレコード
をかけているのだと思いこんでいた。音楽というのは、あんなにもきれいな曲を
一つのミスもなくやれるのはレコードだからである。くり返し同じ音を奏でるレ
コードをもて遊びながら、そう思いこんでいた僕は、ある日のラジオの音楽が、
人間が生の音を演奏していることを知った。一つのミスもなく、多勢の人間が、
あの演奏をしていると知った時、僕は、人間のもつ能力というものに感動した。
 レコードに誤たず音を入れたのが、人間であることを知らなかったのである。
 僕の人生における最初の大発見であった。人間は実にいろんなことをし得ると
思った。僕のその話に、ヨウは目を細めた。祖母、ヨウとの出会いから、数年。
戦争が始まっていた。「ろくなことにならんねみんな灰になるよ」ヨウはそう言
って口をつぐんだ。


  戦  争

戦争が始まって、世のなかの空気がどことなく変ってきたのは、小学校へ入っ
たばかりの幼い僕にもよく分った。小学校は、国民学校と呼ばれるようになった
し、遠足のことを、軍隊にならって行軍といった。ある日学校から帰ると、頭を
丸刈りした見知らぬ男が、座敷机に向い、父の坐る場所に坐っていた。僕はどこ
の人だろうと思いながら、ぴょこんと頭を下げた。それを見て母が吹きだした。
その男も吹きだした。「お父さんが分らんので?博之」と母が言った。母は笑い
すぎのためか、目に涙をためていた。もしかすると、可笑しいのと頭を丸めなく
てはならぬような時代になったことが、悲しかったのかも知れない。たしかにそ
れは父に違いなかったが、おしゃれで、身だしなみにうるさい父の俤はなくて、
僕には見知らぬよそのおっさんとしか映らなかった。戦争になったので、敵国の
髪の形をしているのは許されず、軍人と同じように頭を丸刈りにしないと罰を受
けることになるのだと、母が説明してくれた。戦争のため、母の和裁の教室へ勉
強にくる娘たちもいなくなった。母はいつも着物で、洋服は着ないひとだったが
着物とも、洋服ともつかない変なものを着るようになった。どこの家の女の人も
同じ服装で、モンペと言うものだった。男は、背広を着ることは許されず、カー
キー色の国民服というのを着せられた。小学生の僕らは半ズボンで、冬になって
も長ズボンなどはかせてもらえず、ポケットは全部手をつっこめないように縫い
つけられてしまった。冬だからといって寒がったり、ふるえたり、すぐ風邪をひ
いたりするのは、日本男児に非ず、というわけで、軍国主義教育というのは、幼
い子供にまで及んでいた。国民学校の先生も軍国調が身について幼い生徒に往復
ビンタを見舞う先生もいた。朝礼には、皇居遥拝をやらされた。天皇陛下は現人
神で、絶対の存在だった。軍隊では上官の命令は天皇の命令であったように、小
学校の教師も、生徒に命ずる時は、天皇の命令だと思わされていた。その頃クラ
スに田中という、乱暴者の頭のわるい生徒がいて、暴力でみんなを押さえつけて
いた。二年生の二学期に、この子が班長に選ばれた。互選だった。僕の席は田中
の班に属していて、僕は頼まれなかったが、仲間を脅して、田中が班長になりた
がったらしかった。彼が班長に決められて、お昼休みになったら、田中は班のも
のに、廊下へ並べと命令した。僕らは何のことか分らず並んだら、田中は端から
順に往復ビンタを見舞った。僕が口惜しくて殴り返そうとしたら、田中は「天皇
の命令だ」と叫んだ。彼がたびたび暴力をふるうので、学校に厳重に抗議を申し
入れた父兄がいたらしく、田中は班長をおろされた。彼は自分の班の者だけでな
く、他の班の者も天皇の命令でビンタを見舞っていた。田中が班長をおろされた
日、クラス全員の前で、被害を受けた者ひとりひとりが、どんな目に合ったか発
言をした。彼はみんなから吊しあげられて、口をねじまげていた。「こんなとこ
ろに二度と来てやらん」と田中は叫んで、女の先生をにらみつけ、荒々しくドア
を開けて教室を出ていった。どうにも手がつけられないという、先生の表情だっ
た。田中に出会ったのは、翌年の新学期だった。彼は僕の顔を見ると弱々しそう
に笑ってみせた。淋しそうだった。田中は、三年生の列に並んでいる僕のほうを
二度とふり返らず、二年生の教室を目指して歩いていった。


     餓鬼のように

 僕は小学校へ行くようになってからも夜は祖母の家へ泊りにいった。食糧事情
は悪くなって、おかゆや雑炊が主食となった。学校では給食があって、めしとお
かず、おつゆ、時にはパンなども出た。その頃の僕らは、兄弟で競うように大食
らいだった。いくら食べても満腹することを知らないような胃袋だった。ヨウの
家では、僕にやはり雑炊や、時には米のごはんも炊いてくれる。祖母は農家に援
農に出かけるので、食べるものには困らなかったようだった。祖母の作ってくれ
る朝食をたらふくつめこんで、家に帰ると、母が「ごはんは」と聞いてくれる。
僕は「まだ食べていない」と偽って、また一人前に平らげた。そんなことが重な
ってある日、祖母にそのことがバレて、こっぴどく叱られた。「あんなに沢山食
べて帰るのに、おばあさんがお前に何も食わしてやらんように思われる。なんと
いう情ない奴じゃ。お前がそんないやしい性根の持主だとは夢にも思わなんだ」
父からも、母からも叱られて、僕は返すことばがなかった。父からは拳骨を頭に
くらった。父の拳骨は痛かった。高さ一センチほどのたんこぶが出来た。
 そのころの体験を、僕は「がらんどうは歌う」という 独 白 劇 にこんなふう
に書いている。『おかわり。僕がさし出す茶碗を見て、姉が、僕をそっとにらむ
のだった。僕にはその姉の眼が、なににそそがれていたかよくは分らなかった。
母は、ハイといって僕にごはんをついでくれる。僕はガツガツとよく食ったもの
だ。いまでもそのことを想うと自分を呪いたくなるくらいによく食ったものだ。
 だが僕は知らなかったのだ母が爆撃で焼け死んで、僕の母代りになった姉が、
そのことを話してくれるまでは。』自分の食い扶持を息子に与えてしまう母親を
回想する場面であるが、生命力の旺溢する少年時代の、なつかしい悲哀を覚える
思い出である。


     空 襲 の 日 々

 食糧が次第に手に入らなくなるにつれて、空襲が激しくなってきた。南方での
相ついでの玉砕のニュース。学校へ行ったかと思うと、警戒警報発令があり、下
校させられる。ラジオのニュースで、始めのうちは「敵B29多数が紀伊水道を北
進中、徳島県, 警戒警報発令」などと放送されていたが、そのうち、県名を放送
すると敵に裏をかかれるからとかで、徳島県は、西地区という暗号名で放送され
るようになった。その故かどうか、B29 やグラマンという小型機が、 昼夜を問
わず頭上をゆうゆうと通りすぎて いった。 僕の近所、一キロ足らずのところに
徳島の聯隊があったので空襲警報のあと飛んできたグラマンが、爆弾を落した。
五〇〇キロ爆弾だということだったが空から、空気をひき裂いて落ちてくる
爆弾の、耳をつんざく金属音は、得も言えず恐ろしかった。次第に迫ってくるそ
の音は、もうこれで人生も終りになってしまうかと思えるほどの恐怖だった。
 ある日、姉と祖母と三人で、いる時、爆弾が落とされた。姉と僕は、ヨウの家
の前のコンクリートの橋の下にとび下りて身をかがめ、耳をかかえこんでいた。
 ヨウは平気な顔で座敷に坐っていた。僕は、例の音が近づき、爆発音がして、
からだがふわっと空中に浮き上り、爆風が吹いてきて、耳がつーんとつんぼにな
った時、思わず「神様助けて下さい」と叫びながら泣きだしてしまった。姉は、
あきれた顔をして、「博ちゃん、弱虫やねェ。姉ちゃんは平気だったよ」とケロ
リとしていた。ヨウは、僕の涙に汚れた顔を見て、だまって頭に手を当ててくれ
た。僕は爆弾の落ちたあと、担架に乗せられて運ばれている、肉のかたまりを見
た。それは誰かの遺体だったのだろうが、人間の形跡などなく、獣の肉でも乗っ
けているみたいだった。日本てぬぐいで鉢巻をした、中年の男の人が、泣きだし
たいのを耐えている顔付でそれを運んでいた。爆弾の落ちたあとは、直径五メー
トルほどの、すり鉢形の深い穴があいていた。聯隊が爆撃をうける故かどうか分
らないが、家の前の小学校の教室を、兵隊がやってきて宿舎にしていた。そのこ
とを知っているかのように、グラマンは学校にも機銃掃射を浴びせた。その時は
だれにも弾は当らなかったが、学校のコンクリートの塀には、弾痕が規則正しく
斜めに 並んで穴になっていた。
一九四五年七月三日。徳島市は空襲された。父はからだが弱かったのと、軍属
として弾薬箱の工場に登録されていて、兵役は免れていた。その夜、徳島の中心
部にB29は焼夷弾を投下した。大きな火災で空がまっ赤に燃え、その炎でB29機
は銀色の機体を赤く染めながら低空飛行していた。
僕たち家族は家の前に立って、火の方角を見ていたが、B29が頭の上を飛んでき
たとき、ガソリンの匂いが広がった。



焼夷弾が落とされた。巨大な火のかたまりが花火のように空中で飛び散った。
ガソリンを撒いてから焼夷弾を落とすのだから、佐古の町を火が走るのはあっ
という間のできごとだった。はるか遠くの方だった火は、身近に迫り、眉山もあ
ちこちで火が燃え広がっていた。父が叫んでいた。僕はかぐ下の弟と二人で走っ
た。父のことも母のことも念頭になかった。どうして家族のことを考えもしなか
ったのだろう。弟とふたりで、聯隊の方へひた走った。田圃のまん中に立って、
弟とふたりで山や街が燃え広がるのを、ぽかんと見ていた。朝になると、父が大
声で、ふたりの名前を呼びながら、遠くの方からやってくる。ずい分探したよう
すだった。「無事だったか」ふたりを見て、父は急に疲れたように肩を落した。
映画のなかでなら抱きあって泣くのだろうが、僕らはこくんとうなづいただけだ
った。父は怒らなかった。「みんな無事だった」父はそう言って、燃えるにまか
せている街を放心したようにみつめていた。


瓦 礫 の 街

灰になった街。瓦礫と化した街に、何が残ったのだろう。無気力な、空ろな目
で歩く人々の心のなかは、絶望と、涙も出ない号泣ではなかったろうか。政治に
たずさわり、戦争を決定した人間が、どんな大義名分をたてたにしろ、戦争は人
間に悲惨をしかもたらさない。戦争による未亡人や、未婚のまま生涯をおくる運
命をになったひと、孤児となってしまったひと、一家全滅となったひとびとなど
死ななかったことを、不幸中の幸いと思うしかないような、不幸をもたらす不吉
な風が、戦争というものである。僕もまた見た。あらゆる悲惨。辛酸のきわみ。
 生きてあることの困難。それはその後の僕の運命となった。その象徴とでも言
うべきだろうか。灰燼と帰した焼土の強い燠火のなかで、人間が丸太棒のように
燃えくすぶり、はらわたから煙をだしているのを見たりした。異様な匂いと、か
って存在したはずのものが一切消えてしまった風景のなかから、どんなものが、
どんな形でよみがえってくるのだろうか。ひとびとの心のなかにも。
 四国のちいさな街、徳島市街は一夜のうちに、四国三郎と呼ばれる吉野川と眉
山の間の細長い焼野原と化していた。佐古の街も、十六丁目まであるうち、九丁
目までが灰燼となった。九丁目は僕の家の前の小学校を挾んで、本通りは焼け落
ち、僕の家のあった側は、三軒となりの玉野さんという家が、直撃を受けて全焼
したが、僕の家は類焼をまぬがれた。幸か不幸か、という考え方があるが、焼け
なかったことはたしかに幸いだったが、このため、運命を左右されるような、不
吉な風が、焼け残った僕ら家族に吹きはじめた。しかし、幸か不幸かということ
に断を下すのには、何十年という歳月を閲して、始めて言えることかも知れない
と、いまでは考える。避けては通れないものを、運命というのであろう。


      父
 父は厳しいひとで、年中機嫌がわるく、子供たちにとっては雷親父だし、母に
もやさしくはなかったが、そうかといってつき放しているわけではない。僕と弟
の司郎が、ふたりきりで、両親や姉や弟妹のことを思いもせず逃げてしまったあ
と、どんなにか心配してくれたことだったろう「博之!司郎!」と、喉も裂ける
かと思うような大声で、あてもなく叫びながら、何時間も探しまわってくれたの
である。しかし、普段はあまり、自己の感情の抑制をうまくできないひとで、身
内には厳しすぎたり、口やかましすぎたりした。他人には、きわめて無口で、親
切で、父を知る人は、いいお父さんを持って幸せだね、などというので、内心、
ペロリと舌をだしたくなったものである。


      兵 隊 さ ん

 僕らが家に帰ると、三軒むこうの玉野さんの家は無くなっていて、水をかけて
消火しない火事場の匂いだろうか。壁土が焼かれたような匂いがただよっていた
母と姉が、わが家の家財道具を、家のなかへ運びこんでいた。家具類が、家の
道路をへだてた、小学校の塀ぎわを流れる小川のふちぎりぎりに並べてあった。
小学校に駐屯していた兵隊さんが、類焼しそうなわが家の荷物を、残らず運び
だしてくれたとのことだった。僕には兵隊さんのなかに、何人か仲良しになった
ひとがいて、よく遊んでくれたのだ。夕方になると、学校の運動場で、練兵をし
ていた。運動場を、二百人位の兵隊さんが輪になって行進しながら、

 日本男児と生まれきて
 いくさの庭にたつからは
 名をこそ惜しめつわものよ
 散るべき時に清く散る
ほまれに何の悔やある

などと、銃をかついで歌うのである。ザックザックと軍靴が足並をそろえて歩く
音を聞くと、逞しくてうっとりした。僕は運動場の土の上に坐って、いつまでも
間近で練兵をあかずにながめていた。そのうちに、僕の前を通りかかるたびにに
っこりと笑顔を見せてくれる兵隊さんが何人かいた。練兵が終ると、僕を招いて
いろんなことを聞いたりする。「姉さんはいるか」などと聞く奴もいる「いる」
と答えると、「べっぴんか」などと聞く「そうだよ、決ってるだろ」などと僕が
答えて、兵隊たちはどっと笑う。僕は父よりはるかに逞しい彼らの腕にぶら下っ
てみたりしながら、楽しいひとときをもつのだった。いまでも名前を覚えている
兵隊さんがいて特に仲良しだった。大名門柳助という名で「おなかど」と読むそ
うだ。伊予亀岡の漁師のせがれだということだった。彼はよく絵を画いてぼくに
くれた。わら半紙や画用紙に、鉛筆や赤鉛筆で、僕の住んでいる家を校内からス
ケッチしたり、自分のふる里の伊予亀岡の家などを、思い出して画いてはその絵
をくれるのであった。絵を画くのは大好きだといった。もうひとり仲良しの兵隊
さんがいた。彼は炊事当番の時、夕方容器をもって炊事場にくるように、という
ので、なべをもってでかけると、大きな釜のふたをあけて、ごはんのすこし焦げ
目のついたのを、たっぷりと入れてくれた。そんな兵隊さんたちが、僕の家の荷
物を裸足になって座敷へあがり、全部出してくれたのである。荷物が片付いて、
ほっとしたところで僕は学校へ行ってみた。木造二階建ての校舎は全部無事で、
いつもと変らなかったが、校庭から街を見ると、様子は一変していた。黒く焦げ
て、長さが半分以下になった電柱が点々と目につくばかりで、あとは煙を出して
はいたが、赤く焼けた、煉瓦色の壁土と、やはり赤く変色した屋根瓦の瓦礫の山
ばかりだった。正門の前に、巾五米ほどの川があって土地の人はその川をながれ
と呼んでいたがその川に面して建っていた紙問屋の倉が焼け落ちて、川のなかに
周囲だけが少し焦げた紙の束が沢山落ちていて、それを拾っている大人がいた。
級友の農家の鎌田くんの家も焼けていた鎌田くんの田へは、ヨウが田植えを手
伝いにいったりするので、家のひとはみんな顔なじみだったが、焼跡にはだれも
いなかった。ヨウが「みんな灰になるよ」と言っていたのは、このことだったの
だろうか、と僕は考えていた。


    幼 い 夢 想 家

 その頃の僕は夢想家で、考えごとをしたり、読書をしたりしていると、だれが
呼んでも耳に声が聞こえなかった。本の世界に入り込むと夢中になってしまって
読書の最中に名前を呼ばれても全く気がつかないのである。父は、僕が用事を言
いつけられるのがいやさに返事をしないのだ、と決めつけていて、僕が返事をし
ないと、いきなりやって来て、拳骨をぽかりとやるのである。そこで始めて我に
かえるのだ。「本など読んでいる奴は、ろくな人間にならん」と父が口ぐせのよ
うに言って、僕から本を取りあげようとしても、明治、大正期以来の小説をほと
んど読破している母が味方についているので、止めることはできなかった。
母は僕の文学への良き指導者だった。家には、オレンジ色の表紙の三段組みの
文学全集が何さつかあって、ルビがふってあり、僕は小学校の二年生から、夢中
になって読みふけったものである。久米正雄や菊地寛の恋愛小説もずい分読んで
三年生の頃には、恋愛の何であるかを知ってるような気がしていた。父が読書を
嫌ったおかげかどうか、本を読む速度が早くなり、母も速読家だったが、僕は母
よりも早く読めるようになった。一方、僕は自分の住んでいる地球や宇宙のこと
について奇妙な考え方にとりつかれていた。大地や、空や小川の流れなどを見、
自分のからだなどを観察しながら、この世界は、だれかの胎内に存在しているの
だという考えであった。この大きなものが、だれかのからだのなかにあるという
ことは、不合理のようだが、必ずその不合理は、ぼくの夢想のなかで可能であり
ぼくの胎内にも、太陽や月や地球があって、人が住んでいて、そのひとりひとり
の人間全部が、また宇宙を腹のなかに持っているのであった。ぼくは、からだの
なかに、胃や腸があるなどということは、夢想だにせず、恋愛の何たるかを知っ
たつもりでいながら、そんな宇宙の考え方にとりつかれていたのである。
ぼくは焼けてしまった街を見ながら、腹のなかで戦争が始まったら大変だ。き
っと激しい腹痛で転げまわるに違いない、などと考えていた。


     五月さんの帰還

 校庭で兵隊さんが、焼けだされたひとびとのために玄米ごはんのおにぎりを作
って、炊きだしをしていた。顔見知りの兵隊さんがいたが、僕の顔を見てもにこ
りともしなかった。みんな生真面目そうな顔だった。家を焼かれたひとたちの前
で笑ってはいけないんだな、と僕は思って、おにぎりをもらう行列のなかに並ん
だ。大きなおにぎりで、赤ん坊の頭ほどもあった。それを二つもらって、家へ帰
ろうと裏門をでた時、むこうの方から見覚えのある三十才位の男の人が、こちら
へ歩いてくるのに気がついた。大人はみんな丸刈りにしているはずなのに、その
ひとはオールバックの長髪をきれいになでつけて、背広をきちんと身につけてい
た。「五月さんだ!」僕はつぶやくと一目散に家へ走った。「お母さん!五月の
叔父さんがやってくるよ」と家へとびこむなり叫んだ。なにかの図面に目を通し
ていた父は、僕の叫びを聞いて腰を浮かした。五月さんは父の弟である。軍隊へ
の招集令状、赤紙が送られてきた時、徴兵を忌避して姿をくらました。そのため
父が警察に呼びだされて、さんざん絞られたのである。上海あたりにいるのでは
ないか、と父は言っていた。その叔父が、焼け残ったわが家へやってきたのだ。


     雑 居 人 来 襲

 叔父の五月さんが、どこからともなく風のように現われてから、わが家に、家
を焼け出されて行く先の無くなった人間が、次々と増えた。父の母親、僕の祖母
小ぎく。父の妹で僕の叔母にあたる一二三さん。その娘の僕のいとこにあたる一
子さん。父の職人仲間ですこし人のいいブーやんという愛称の中年男。どういう
関係にあたる人か思いだせないが、拝み屋をしている老夫婦。遠縁だということ
だが、これもどういう関係か分らない鉄夫さんという大学生などがやってきた。
 父も母も、頼みこまれると、拒絶することのできない性格だった。「困ってい
る時はおたがいさま。情けは人のためならずよ」と母は言うし、家人の言うこと
を容易に肯んじない父も、この件に対しては母と同意見だった。それにしても一
人畳一枚ほどのスペースしかなくなって、束の間のことだからとはいうものの、
雑居の生活というものは、混乱をきわめていたに違いない。僕はそれまで、ひと
りで祖母、ヨウの家へ泊りに行っていたが、家が手狭になりすぎたので、姉も毎
夜、泊りに行くことになった。


      五 月 さ ん

 叔父の五月は、美男子で、西洋料理のコックだった。大阪の中之島中央公会堂
の下のレストランから見習いが始まって、大阪、上海、サンフランシスコまで足
を伸して、コックをしてきた。徴兵を忌避して、どこへ行っていたのか。いまご
ろ帰ってきて、平然としていても大丈夫なのか。誰が何を聞いても、ろくに返事
はしなかった。端整な顔立ちをして、目が鋭く、翳りがあって僕などはこわくて
ものを言えなかった。五月さんと父とは、あまりうまが合わなくて、どちらも無
口のむっつり屋で、まわりの者も気づまりなふんいきだった。五月さんはおしゃ
れであったが、生活信条が普通の人とは全く違っていた。コックとして各地を渡
り歩く故かも知れないが、身のまわりの持物というのがまるでなかった。四季ご
とに下着と上着とを新調し、次の季節に着がえる時は、脱いだものを気前よく人
にやってしまって、常に二三着の上着と下着を持っているだけであった。註文は
いつも神戸の一流の店で、最高級品しか身につけないのである。靴も一シーズン
で同じように買い替えて人にやってしまう。あとは、カミソリと石鹸、タオル、
靴下を二三足もつだけである。それ以外には何一つ持たないのである。戦争中の
物の不足している時にも、わが家へやってきた時は、ぴしっと決めた服装で、一
分の隙もない有様である。戦争などどこを吹く風か、という感じだ。雑居家屋の
なかに舞いおりた貴公子というところである。五月さんは昼前になるとどこへと
もなく出かけてゆく。四時頃に帰ってきて近所の銭湯へ行き、長髪をなでつけ、
タオルできれいにまいて、一時間ほど昼寝をする。それから、さわやかな顔をし
て、またどこかへ出かけていってしまう。彼は、どこか世間の裏の世界にもぐり
こむ穴でも持っているらしかった。コックとしての腕は超一流だということだが
そんな腕を必要とする世界が、焼き払われたこの街のどこかに存在するらしかっ
た。小学校に駐屯している部隊の部隊長が宿泊している、近所の大きな屋敷から
出てきた隊長付きの兵隊が、五月さんに敬礼しているのを見かけたことがある。


ブ ー や ん

父の友人のブーやんという男は、洋家具の職人だが、すこし知能が低くて、む
ずかしいものは作れない。しかし、坊主椅子という、一杯飲み屋に並んでいる丸
椅子を作ることにかけては、早さといい、頑丈さといい、ブーやんの右にでるも
のはないという父の話だった。ブーやんはものを言うとき、すこしどもった。父
を尊敬していて、僕に「お父さんは、神様といわれているんだよ。お父さんの真
似のできる職人はどこにもいない。ハァ」などと僕に話してくれる。このブーや
んには悲しい病気があった僕の家のすぐ路地裏に、ブーやんの妹の家があって、
彼は、そこへふとんをあずけて、夜になると、ふとんを抱えて、わが家にやって
くる。朝になると、このふとんをまとめて持って帰るのである。ブーやんは、五
月さんのとなりに並んでふとんをしいて寝た。ブーやんが家に泊るようになって
しばらくしてから、五月さんが父になにか文句を言ったらしい。ブーやんを、家
に泊めるな、ということらしい。父はブーやんを愛しんでいたので、苦り切って
いた。「そんなことはできない」と、五月さんに断固として断った。そのことで
父と五月さんの間に、口争いがひんぱんに起きるようになった。問題は、ブーや
んがまるめて持ってきているふとんにあった。彼は、夜中に寝小便を必ずするの
だった。持って帰って、陽に干して、また夜にまるめて持ってくるのだが、毎日
が晴天とはかぎらないし、異臭がするのだろう。潔癖な五月さんには、どうにも
我慢のならないことだったのだ。しかし、父には、ブーやんにもう泊めることは
できない、などとは口が裂けても言えないことだった。父はブーやんのその悲し
い病気のことを、知ってはいたらしい。すぐ近くに妹がいて、そこに寝泊りでき
るはずだが、妹が泊めてくれないのは、その病気の故だったのだ。五月さんにす
れば、父の人の良いのにもほどがある。どうして妹のところへ泊るようにさせな
いのか、というところだろう。


     防空壕と玉音放送

 一九四五年八月六日。広島に新型爆弾が落されて大変な被害だという話が伝わ
ってきた。一発で広島市は壊滅してしまったということである。光線にやられる
ので、まっ白な服を着ていたひとは反射して大した怪我をしなかった、とか、三
米以上の深い土で覆われた防空壕にいた人は助かった、などという話も伝わって
きた。空襲にあうまでは、どの家庭も、床下の土を堀り下げ、床の下へもぐるよ
うな壕を作れと言われて、座敷の床下に苦心して壕を堀り、しめっぽくかび臭い
のを我慢して、空襲警報がでるとそこにひそんだ。しかし街がかくも無残にもろ
く焼き払われてみると、床下に入るのは、確実に死を選ぶことになることが分っ
た。防空壕を作りなおさなくてはならないと父は計画をはじめた。新型爆弾が落
されても大丈夫な壕をどこに作るか。父は、裏庭の隅に作るつもりで、土を堀り
はじめた。次第に深く掘られていく穴をながめながら、穴を掘って疲れて、一休
みしている父に僕は「お父さん、この穴の丁度真上に直撃をくらったら助からな
いだろうね」と言った。父は手を洗うために、洗面器に水を一杯いれて持ってき
てあった。父は僕の顔をきっとにらみつけて、いきなり洗面器の水を僕に勢いよ
くぶっかけた「お前はそんなふうになりたいのか!」と大声でどなりつけた。ず
ぶ濡れになって泣きだした僕の後に、五月さんがいつのまにかきて立っていた。
「どうしたんだ博之」といって、僕のぬれねずみの姿に苦笑した。それから、
父に向って「そんなもの作らなくても、もう二三日で戦争は終るよ」と言った。
 確信にみちた声だった。父は返事をしなかった。そんなことが信じられるか、
というような姿勢で、また防空壕を堀りはじめた。どこでそんな情報を手にいれ
たのか知らないが、五月さんの言うことは正しかった。僕は、戦争は必ず勝つ、
というのを信じたかった。ヨウは負け戦じゃというけれども、神風だって吹くと
いうじゃないか。いまに奇跡が起って、鬼畜米英は、白旗をかかげるに決まって
る、と思っていた。五月さんが、その朝、今日大事な天皇陛下の放送があるよ、
と言った。父は、まだ壕作りに精ををしていた。暑い、天気の良い日だった。
 家の前の校庭の、僕の大好きなポプラの樹に、熊蝉がうるさいほど鳴き、大き
なポプラの葉が、きらきらと陽に反転して光っていた。どこかで、神風が吹いて
いるのだろうかと僕は考えていた。その日は空襲もなく静かな一日だった。拝み
屋の老夫婦は、自分たちの空間のまわりに、手荷物をぐるりと囲むようにならべ
て、向い合って坐っていた。父は壕を掘るのをやめてラジオの前へ来た。母も神
妙な顔をして下の弟をひざにのせていた。ブーやんもいた。ヨウは、浪速節や、
浄瑠璃を聴く時のように、すこし口元をゆるめて、ラジオの方を見ていた。僕は
ヨウの横に坐ってみんなの顔を観察していた。五月さんはいなかった。一体これ
から、何が起ころうとしているのだろう。放送がはじまった。奇妙な抑揚のつい
た声で、何を言ってるのか僕にはさっぱり分らなかった。戦争は終ったらしい。
 勝ったのか負けたのかは分らないが、休戦したらしいことは確かだ。父が判然
としないという気持を現わしながらそう言った。しばらくすると五月さんが帰っ
てきた。「負けたんだよ、負けた」といって、みんなをみまわした。父は、する
ことが何にもなくなってしまったような顔をして、だまりこんだ。五月さんは、
ブーやんの顔を、鋭い目で刺すように見た。ブーやんは、そそくさと出ていった
「見たか、あいつのふとんを」と吐きすてるように五月さんが父に言った。父は
五月さんの目をにらみ返した。「お前にひとの気持が分るか」と父は言って口を
への字に閉じた。一九四五年昭和二十年八月十五日のことだった。


     奇 妙 な 癖

 終戦というのが、負け戦だったと知って、がっかりはしたけれど、警報がでる
たびに学校を早退させられて、ろくに勉強もできなかったのに、やっと爆撃の恐
怖から解放されて学校へ通えるようになったのでほっとした。学校に駐屯してい
た兵隊さんたちが、ある夕方、校庭に銃や剣を山と積みあげて、油をかけ火をつ
けて燃やしていた。戦争中は、僕らの学生服の、金属のボタンまで取りあげてし
まって、ガラス製の代用品に替えられてしまったのに、もったいないなぁと、僕
は慨嘆した。学校の教科書も取り上げられて、印刷のゲラ刷りのようなぺらぺら
の印刷物が配られてそれで授業を受けた。戦場のような、などという表現とか、
闘争的な、反平和的と思われることばが、教科書から抹消されていた。僕は教科
書に目を通しながら、敵国語だと称して英語の使用を一切禁じたかと思うと、今
度は手の平を返したように、そんなことばを抹消する大人たちに、腹が立った。
 僕の愛読する小説にも××××などと伏字がどれほどあるか知れないのだ。小
説を乱読するような少年だったから、僕はかなり世故たけていたかも知れないが
学校の国語の授業などは、ちっとも面白くなかった。僕は教室の窓ぎわに席があ
って、授業中によく眉山の方をぼんやりと眺めた。僕はものをながめているうち
に、ながめていることも忘れて、目を開けたまま、魂がどこかをさ迷ってしまう
のである。それは、食事をしている時にもひんぱんに起きた。父は、いきなり食
卓をどんと叩いたり、僕の頭をこづくのである。「博之、お前はいったい何を見
ているんだ」と父が言うと、母は「博ちゃんは、何も見ていないのよねぇ」など
と、かばってくれるのである。母にも、そんな癖が少女の頃にあったということ
だ。授業中にみんなの大きな笑い声がした。僕は、はっと我にかえった。先生が
僕に対して何度も声をかけて、何か言ったらしいのに、僕が全く反応しないので
みんなが笑ったらしい。担任は四宮先生といった。暖かい父性を感じる先生だっ
た。先生はよく僕の目をじっと見据えた。心の奥を覗かれているような気がした
「山内、なにが見えたかね」と四宮先生は僕に聞いた。「ハイ、とても気持のい
いところです」と僕は答えた。先生は「そうか。良かったな」と言ってやさしい
微笑をした。その時、兵隊さんの号令をかける声とザックザックという軍靴のひ
びきが伝わってきた。兵隊さんが、学校からひきあげて、去っていくところだっ
た。「行ってしまうのか」と思うと、悲しくなって涙がでてきた。四宮先生は、
僕の顔を見て、校庭の兵隊の去ってゆくのを見た。先生は、僕のところにきて、
僕の丸刈りの頭に、そっと掌をおいてくれた。やさしい波動の伝わってくる先生
の手だった。数日して、僕は兵隊さんがくらしていた教室へ行ってみた。机も椅
子もなにひとつないがらんとした教室だった。なかへ入って、しばらくあたりを
見廻わしていると、なんだか足のあたりがむずむずした。見ると、何千という蚤
の大群がいて僕の足にたかってきたのだ。ゴマを撒いたような蚤の大群だった。
 僕はびっくりして逃げだした。あんなに沢山の蚤が兵隊さんにたかっていたわ
けではないだろう。兵隊さんがいなくなってから異常発生したのだろうが、僕は
ショックでしばらくものが言えなかった。


     父と五月さんの対立

 戦争が終ってから、兵隊に行っていた近所の男たちや若者たちが帰ってきた。
 わが家ではむっつりと、気むずかしい五月さんだったが、近所の若者たちとは
よく気があって人気があった。五月さんの寝泊りしている玄関にちかい六畳の間
に、若者たちが五月さんを囲んで、毎日何かに打ち興じていた。わっという喚声
があがったり、ピシッと何かを叩きつけるような音がしていた。父は苦り切って
いて、僕たちが興味を示しても、その部屋を決して覗かせなかった。花札賭博を
ご開帳しているのだ。父は酒以外に、趣味というものをまったくもたず、勝負ご
とは囲碁も将棋も知らなかったし、母が得意だった百人一首のカルタ取りにも加
わったことが一度もないひとだった。仕事と、発明をするのが好きで、戦時下の
物の不足している時代にも、代用品の竹製のゴムひも通しだの、竹製の学童用ラ
ンドセルなどを新案特許をとったりしている。父の発明は、大したものではなか
ったが、特許の数は十数回にのぼる。図面から申請の文書にいたるまで全部自分
で書いて出し、弁理士などに依頼したことはないというのが、父の自慢だった。
 父はいわば堅物であった。人生に練れていない頑固で小心なところがあった。
 その小心で頑固な心は家族に向けられ、外に対しては理解力もあり包容力もあ
った。それがわが家に、来客の多い理由だったのだろう。母は世にいうよく開け
たひとで他人に不快感を与えなかった。だれでもがわが家にくると自分の家のよ
うに無遠慮だった。父も母も、もの惜しみをしなかった。だからこそ、近所の人
たちの気さくなたまり場、社交場のような家庭だったのである。しかし、五月さ
んの作りだした社交場は、まるで違っていた。父にとっては、わが家が賭博場に
なるなどということは許せることではなかった。僕たちには見えないところで、
父は五月さんにやめるように言ったのだろう。しかし五月さんはやめなかった。
ブーやんも追いだせないのに、自分の仲間に来るなといえとは何事だ。そんなこ
とがあったらしく、父と五月さんの口争いは表面化してきた。父も短気なら、五
月さんも短気だった。ふたりが口論をはじめると、弟や妹たちがおびえて泣きだ
す。同居をしている祖母の小ぎくもおろおろし、姉も従姉も泣きはじめるのだ、
そんな騒ぎが日毎にくり返されるようになった。拝み屋の老夫婦は、どこかへそ
そくさと居を移して姿を消した。ブーやんも、妹が泊めざるを得なくなって来な
くなった。しかし、父と五月さんの対立は、そのためより根源的になっていった
のだろう。父はむっつりと考えこむようになった。その頃のわが家は、戦後のも
の不足で、台所用具が不足している折柄、父のアイデアで大根のなますつきをこ
しらえ、売りだしたところ、面白いように売れた。母も子供たちも手伝って、い
くら作っても製造が間に合わない有様だった。いままで父が新案特許をとって企
業化しても、みんな失敗で借金が残ったのにくらべ、なますつきは儲かったよう
だった。五月さんは、終戦になったことで、逆に仕事がなくなったようだった。
彼はその上、外国で暮していた間にかんばしからぬ病気をもらっていたらしい。
絶えず注射が必要だった。このことは四十年も経ってから、五月さんから死の直
前に聞いたのだが、彼は注射を受ける金がなかったので、まず医者のところに行
き、病名と必要な薬の名前を告げて注射をしてもらい、終ったあとで現在金がな
いので出世払いにしてもらいたい、と交渉した。たいていの医者は、仕方なくロ
ハにしてくれたが、この手には一度しか応じてくれず、彼は全部で二百六軒の医
院を訪れて、病気を治してしまったそうである。そういう背景もあって、彼はす
こし精神にも異常を来していたのだろう。ある朝、わが家で朝食中に、まき割り
のまさかりを持った五月さんが父になにか口走りながら迫ってきた。「なんのつ
もりだ、それは!」と父が叫ぶと、我に返って手にしていたまさかりを見て「ま
きを割っていただけだ」と言いながら、何事も起こらずひきあげたが僕の家族、
ことに幼い子供たちにとっては、背筋の凍るような一瞬だった。このことがあっ
てから、父は仕事を放りだして、ひんぱんに外出するようになった。父は家を捨
てて、自分たち家族が、どこかへ移ることを考え始めたのだ。


ま さ や ん

 そんなある日、ヨウがやってきて、母と話しこんでいた。僕は食卓で小説を読
んでいた。古い平家造りの家で、昼間でも暗かったが、台所の屋根に、父が、下
からヒモで開閉できる天窓をこしらえてあって、食卓の上は明るかったからだ。
 台所の土間から射してくる西日が、不意にさえぎられてだれかがゆっくりと入
ってきた。松葉づえをついていた。着ている着物はボロボロで、眼は鋭く、無精
ヒゲが伸び放題だった。まさやんと呼ばれている、父の義理の兄、正信さんだっ
た。「みんな元気かい」と僕に言った。僕はうなずいて、母を呼んだ。まさやん
は決して座敷にあがらなかった。まさやんの躰からは異臭がただよっていた。風
呂になど入らないのだろう。彼はわが家から十分足らずのところの焼跡に、拾い
集めてきた焼けたトタンなどを寄せ集め、自分ひとりがもぐり込める空間をこし
らえて、そこに住んでいた。まさやんが来たと知って、祖母小ぎくが表の部屋から小柄なからだを現わし「まさやんかい」と言いながら、僕の父とは種ちがいの
息子の姿をじっと見つめ、顔をくしゃくしゃと歪めて、何も言わず姿を消した。
 まさやんは、母から茶を一杯もらって飲むと、「じゃましたな」とぼそっと言
ってゆっくりと去っていった。「なんで来たのかしらきたないなりをして、かっ
こうがわるい」と母が言った。僕はかっとして、母に食ってかかった。「まさや
んだって、ちゃんと風呂に入って、きちんと服を着たら紳士になるんだ。そんな
ふうに言うおかあさんはきらいだ」そう言いながら、僕は泣きだしてしまった。


 母は「そうだねえ、博ちゃんの言うとおりだねえ、わるかったね」と僕に言っ
た。ヨウは「博之はやさしい子だね、えらいよ、そんなふうに言う子はめったに
いないよ」と僕に言った。そんなことがあって間もなく、僕らの家族は懐かしい
わが家を捨てて、転々とジプシーのように流浪することになる。


     小 ぎ く

 父方の祖母のことを書く。名は小ぎくと言った。小ぎくが、どのような運命に
流されて僕の祖母になったか、ということを考えてゆくと、母方の祖母ヨウほど
には、僕に接触はなかったひとだが、小ぎくも、僕の人生航路に大きな影響を与
えている。僕が中年から出家したモメントには、小ぎくの運命の投影が最も強い
と言っていいのである。


     幸 次 郎

 しかし小ぎくのことを述べる前に、祖父幸次郎のことから筆を進める必要がある。祖父、幸次郎の写真だと言ってわが家の一さつきりの、古ぼけた写真帖に不
思議な写真が貼ってあった。セピア色の写真で、頭髪も、あごひげもながくのば
し身には長い布をまきつけたような姿で、ベッドの上に坐って、正面を向き、眼
は閉じている。どう見ても、アテナイの哲人のような姿で、瞑想にふけっている
という感じだ。あるいは死の床にあって、余命いくばくもないことを覚悟してい
る哲人とでもいう姿であった。両親に「この写真は」と聞くと、祖父の幸次郎だ
という。のちに、父から、この写真は伊井蓉峰という俳優の舞台写真だが、どう
見ても晩年の幸次郎としか思えない、ウリ二つの顔をしているので、写真など一
枚も写したことのない幸次郎の写真として貼ってあるのだと聞かされた。のちに
僕が演劇をやるようになって、伊井蓉峰のことをいろいろ知ったが、伊井蓉峰と
いうのは「良い容貌」というのを名前にしたのである。伊井蓉峰は美男子であっ
た。顔が売物で、いつも客席を気にして、ライトをたっぷり正面から浴びて、良
い容貌を観客に見せたがった俳優である。その舞台写真が、祖父幸次郎とウリ二
つというのだから、幸次郎もずい分美男子だったらしい。幸次郎は阿波の蜂須賀
藩の家老の直参の家来だった。大野村というところに、いまも山内という大きな
屋敷があって、父は子供の頃、祖父に連れられて行ったことがあったという。こ
の家は、半農半士といって、普段は小作人などを使って農業を営み、一朝事あら
ば武士として駈せ参じる、というような家柄であった。農業との兼業武士だが、
そういう武士のあり方は阿波藩独特のものなのか、たしか吉川英治の鳴門秘帖に
も、そのような武士について記述があったように思う。幸次郎は苦み走った男で
よく女にもてたということだ。幸次郎は、山内家の次男坊だった。彼は、兄が嫁
をもらって、どういういきさつかは聞いていないが、この兄嫁と相思相愛のなか
になり、手に手をとって駆け落ちをして、徳島市へでてきたのである。封建時代
の武家で、こんなことになったら、たちまち勘当である。幸次郎は徳島へでて商
人になった。彼は機を見るに敏な性質で体力も自信があり力自慢でもあった。四
里の道を、右の肩に米俵一俵六十キロをかついで、途中茶を飲むのに荷をおろさ
ずに飲んでそのまま歩き通した、などという自慢話が残っている。幸次郎は佐古
町初江島字三軒屋という僕が生まれた地の旧地名だが、ここでいまでいうコンビ
ニエンスストアを開店した。かなり当時としては大きな店だったらしい。商売は
図に当って大繁盛して、売上金は木のたるに入れ、一文銭はつねにたるに何杯も
あったという。この一文銭の山は、僕が子供の時にはかなり沢山残っていたが、
戦争中の金属供出令に目をつけられて、めずらしい一文銭は父がひもに通してか
なり秘蔵したが、あらかたとられてしまった。幸次郎の評判は高くて、彼の顔を
見るためにものを買いに来る女も沢山いて「山内の店では砂の寿司でも売れる」
などと評判だったそうである。駆け落ちしてきた幸次郎の妻は、女児を出産した
が、子供は三才で死に、妻も病弱で間もなく死亡する。その頃幸次郎は、かなり
資産ができて、初江島の百米四方ほどの土地を入手している。


再 婚

 多分、明治二十年代の終りだろうと思うが、幸次郎の店に、よく買物にくる、
小柄な美人がいた。小ぎくである。小ぎくは、いまの鳴門市、当時は板野郡大津
村というところの旧家・松田という家に生まれている。この家はいまも続いてい
る。賀川豊彦は、この松田家の血をひいていて、小ぎくとはいとこになると、聞
いている。昭和六一年暮に死亡した五月さんは、いま僕が手許で参考にしている
小ぎくが大切にしまっていた明治四十四年四月四日発行の大津村の、手書きの戸
籍謄本を見せると、冒頭に出てくる松田茂治郎(天保二年十月十四日生)が、賀
川豊彦の父だと言ったが、確実かどうかは分らない。小ぎくの父は安政四年生ま
れの林太郎という。小ぎくは、裕福な松田家に生まれ、お姫さまなどと呼ばれる
身分であったが、どういういきさつからか養女にやられた。阿波藩で学問を教え
る、名門の家だということだ。大津村の謄本で、生田金吾養子云々というのが判
読できるので、そのひとが養家先かも知れない。小ぎくは養女に出されたことが
不満で自分の出生を明確に証明したいため、この謄本をとり寄せて大切にしまっ
ておいたのだそうである。徳島で従姉の一子さんが死亡した(昭和六十年十一月)
時、僕が佛壇のひき出しの底にしまわれてあったのを発見した。小ぎくは明治七
年五月生まれである。その時代だから、多分二十才にならぬ年頃だろうと思うが
小ぎくは光徳寺という寺へ嫁に行った。そこで信一と正信という、ふたりの男児
を出産している。前号に書いた、まさやん、というのが正信のことである。ふた
りの子供が、まだ小学校に入る前後に、小ぎくは幸次郎と出会う。小ぎくには、
意地のわるい姑がいて、苦労が絶えなかったらしい。幸次郎の店へ買物にくるに
つけ、最近妻を亡くした幸次郎に惹かれるようになったのだろう。幸次郎の妻は
光徳寺で弔ってもらったのかもしれない。小ぎくは寺と子供を捨てて、幸次郎と
一緒になった。光徳寺に残された息子ふたりは、母をしたって寺からでてきた。
 幸次郎は信一と正信を養子にして育てることになった。小ぎくは幸次郎との間
に、義一、一二三、五月と、三人の子供をもうけた。義一が僕の父である。
 小ぎくが寺をでたあと、光徳寺では後添をもらって男の子が生まれている。そ
のひとはのちに住職となり、僕も二三度手紙をやりとりしたことがある。信一、
正信を兄としてあつかい、ずっと付き合いがあったようだ。父は僕によく言った
「家のなかに、義理の関係を決してこしらえるな。お父さんは、信一さん、まさ
やんの義理の兄がいて、どれほどつらい思いをしたか知れない」と。まさやんは
養子になって、かなり性格がひねくれて、家人を困惑させたようである。


     溺  愛

 小ぎくは、子供を溺愛するひとで、食事ごとに、ひとりひとりの好みを聞き、
好きなものをそれぞれこしらえてやるような母親だった。幸次郎は、昭和二年に
死亡しているが、小ぎくは、商売もできず、くらしは相変らず華美で、幸次郎の
こしらえた資産を、子供が成長するまで食いつぶした。幸次郎が買ってあった土
地も、切り売りを重ね、自分の家まで人手に渡して、逆に家賃を払って住むよう
になった。僕が生まれたのはその家である。小ぎくには五人子供がいたわけだが
盲愛したためにみんな気ままに育った。信一さんはおとなしく、まじめで、カネ
ボウの職長などしていたらしいが、世帯はもたなかった。正信は、気が荒く、荒
んだ生活を送った。博打が好きで、軍鶏を飼い、闘鶏に夢中になったりして、飼
っていた軍鶏が負けると、その場で「こん畜 生め!」などと叫びながら、鉈
で軍鶏の首をはねとばしたりしたという。どういう原因かは知らないが、左足が
使えなくなって松葉杖を使っていた。母に理由を聞いたことがあるが「罰でも当
ったんでしょう」などと、ぼそっと答えてくれたきりで、それ以上は話してくれ
なかった。まさやんには、むろん連れあいはいなかった。ちゃんと世帯をもった
のは、僕の父だけで、一二三という叔母も、五月も結婚はしていない。一二三に
は、一子という私生児がいて、一子は小ぎくの盲愛の対象だった。小ぎくは、僕
がまだうんとうなづく返事しかできない幼い頃、家にやってくると「博之よ、お
ばあさんはこの家に来てはいけないかい、いいのかい」などと聞いて、ぼくがど
ちらにも「うん」と答えると「この家のだれかが、わたしに来てはいけないと博
之に教えている」などといって母をいびったそうである。小ぎくも、一二三も美
人だった。一二三は阿波美人の代表として、絵葉書きにもプロマイドのようにア
ップで写された写真があった。小ぎくは、美人でない僕の母にそれとなく美人を
鼻にかけたような皮肉を言うので、母はとても口惜しがった。「お母さんは美人
でないからよくよくおばあさんからは皮肉を言われて、悲しい思いをしたから、
お前が嫁をもらう時は、根性がわるくても頭がわるくてもいいからとびきり美人
をもらっておくれ」などと。 僕の母は、子供を七人も生んで育てたが 決して盲
愛をしなかった。母は晩年まで文学を愛するような女性だったから、ものを見る
目に余裕があったのだろう。余裕というのは、他人の立場に立ってものを考える
やさしさのことである。小ぎくにはそういうものが乏しく、その教育が、子供を
家庭ももたず生涯を過ごしてしまうような道に追いやっていたのかも知れない。
まさやんは、人生をどこか放棄していて、その生きざまは、絶望的で、他から見
ている人間をも暗くさせる。そういう要素は僕の父にもあって、そのことを考え
ると救いがたい気持に落ちこむ。まさやんは昭和三十年頃、トタン小屋で哀れな
死に様をして、僕の母が行って弔った。光徳寺の義理の弟が、兄だから寺にて丁
重に弔うといって骨と位牌を持って帰った。僕が文通したのはその前後である。
 一周忌には法要を営むと連絡があったが、その直前、住職はダンプカーにはね
られて死亡した。あとを継いだ息子は、そんな昔に寺をでたのは血縁でもなんで
もないといって、まさやんを無縁仏に入れてしまったのであった。


     不  幸

 人間の生涯のうちには、幸福な時もそうでない時もあるだろう。しかし、ひと
りの人間の生が閉じられた時点で、はたからその人の生涯をながめてみると、不
幸だなあと感じざるを得ない人生もたしかに存在する。しかし、幸、不幸は、本
人の自覚の仕方によるので、他からお前は不幸だなどと押しつけがましく断定す
ることはできない。人間が奴隷であるためには、自分は奴隷だと思いこむだけで
充分だ、というような文章を読んだ記憶があるが、他からいかにも幸せそうに見
える人生でも、本人は不幸この上ないと思っている場合も少くない。祖母の小ぎ
くが光徳寺を出たことで、幸次郎の養子になった正信が不幸であったとはいえな
いだろう。しかし僕が、まさやんを不幸だなあと思ったのは、もし小ぎくが光徳
寺の奥さんとして人生を全うしていたら、まさやんは光徳寺かあるいは他の寺の
住職になったかも知れない。そうだったらここに僕は存在していないわけだが、
まさやんが寺をでなければ、その可能性はあったわけだ。その寺で生まれ育ち、
何年間かを過した男が、死後、その寺へまつられ、供養されるはずだったのにも
かかわらず、自分の生れた寺の無縁墓地に葬られてしまうというのは、実にむご
いというべきだろう。僕はその話を聞いた時、暗然とした気持になった。まさや
んはきっと浮かばれまい、と僕は思った。そんなことをしていると、ろくなこと
にならんぞ、とも思った。なんという因縁話だろうか。僕の不吉な予想は的中し
て、光徳寺は、次々と不幸に見舞われた。住職になった男には、結婚して二人の
子供が生まれたが、二人とも事故で死亡して、妻は去り、この住職は眉山の山中
で首を吊って自殺してしまったのである。つい数年前の話だ。光徳寺には全く無
縁のひとがやってきて、寺をついでいるという話である。


久  子

 話を戦後のわが家にもどそう。僕には久子という七才年上の姉がいる。怜悧で
在学中ずっと通知簿は全甲であった。僕と七才も年が違うので、僕が生まれるま
では、ひとりっ子で終ると、両親とも思っていたらしい。七年目に僕が生まれる
と、軍国主義さかんな時代で、生めよふやせよ、というのが国家のスローガンだ
ったが、それにのっかるように、司郎、貞男、昌幸、ミヤ子、と出生した。昌幸
は生後一ヶ月足らずで死亡している。久子は徳島市立高等女学校に入学してここ
でも成績は良かった。彼女は学校友だちも多く、なかには、徳島の田舎の農家の
娘たちもいて、汽車で友だちの家へ招かれて遊びに行ったりもし、僕は父に命ぜ
られて、姉の出かけるところへは大ていついて歩かされ、姉の友だちのところへ
も行ったことがある。父は、姉を一人娘として育ててきたので、子供のなかでは
もっとも可愛いかったのだろう。姉にわるい虫がつかないように、僕を連れて行
くのでなければ外出を許さないのだった。戦後の食糧難の時代に、姉は田舎の友
人の家から、米ややさいの類をおみやげにもらって帰ったりして、両親を喜こば
せた。その時は、たまたま姉はひとりで田舎の友人のところへ汽車ででかけた。
それをどこで見付けて、どう思ったのか、まさやんが後をつけた。汽車にのり、
ながい道のりを歩くのに、松葉杖をついて、友人の家までつけて行ったらしい。
久子がその農家に泊った翌日、その家へごめんと言って入ってきたのが、まさや
んであった。まさやんは、つけて歩いたあとその村のどこかで夜を明かしたのだ
ろう。久子はまさやんを見て青くなった。まさやんは何食わぬ顔で、米と砂糖と
を交換してもらいたくて、砂糖をもってきていたのに、足が不自由なものだから
転んで駄目にしてしまって、などと同情をひくようなことを言い、お米をもらっ
て帰ったそうである。久子のことは全くおくびにも、知ってるそぶりはしなかっ
たそうだが、そんな田舎に、そういう男が来たこともなかったので、何となく気
ずまりだった、と帰って泣きながら姉は両親に話した。僕がまさやんをかばって
母に文句を言ったのはその前日のことで、まさやんは姉が帰ってるかどうか確か
めに来たのだった「仕様のない男だ」と、父は苦々しい顔をしたが、それ以上は
言わなかった。五月さんといい、まさやんのそうした行為といい、父にはうっと
うしいしがらみであったに違いない。


     儀  一

 その頃、ヨウの家に、息子の儀一がきて泊っていた。ヨウの長男で、変り者だ
った。儀一は十三年も兵隊にいっていたのに二等兵で出征して二等兵で帰ってき
たそうだ。儀一は命令されたり、束縛されることが大嫌いで、面白くないことが
あると、酒を飲んだくれて上官を殴ったりして、十三年のうち半分以上も営倉ぐ
らしだったという。営倉というのは軍隊内にあるブタ箱のことである。営倉から
出されてはまた暴れるということをくり返して、ついに一階級も昇進しなかった
というつわものであった。儀一はヨウの家で泊っていた時、からだをこわしてい
たらしい。僕が泊りにゆくと、儀一は岩波文庫の二宮尊徳余話というのを、易者
が使うような大きな虫めがねを使って読んでいた。「博之これはいい本だからお
前も読んで見ろ。何度読んでも感心するぞ」と言われたことがある。僕も読書好
きだから、その本を見せてもらったが、ルビがふってなかったので、うんとうな
ずきながら返すと「まだむずかしいか」と言った。儀一はその頃、進駐軍の残飯
を処理するような仕事をしていて、もらい下げてくる処理場の前には、乞食のよ
うな人たちが、いつも二十人位は坐りこんで、儀一が余りものをくれるのを待っ
ていた。バタ臭いというか、ラードの匂いか、独特な、日本人にはなじみのうす
い食品の匂いがただよっていた。残飯といっても、食卓での食べ残しではなく、
ヴァイキング形式の食事の、容器に残された食品だったのだろう。どこへどう流
していたのか知らないが、儀一はこの仕事でずい分稼いで、稼いだ金は無造作に
箪笥の引きだしに放りこんでいて、現金がいっぱいだったということだ。ヨウの
家で養生していたのだろうが、儀一はある雨の降る日濡れながら自転車にのって
十数キロの道のりを、小松島へ帰ってしまった。そんな無茶をするひとで、僕が
儀一を見たのは二宮尊徳の本を読んでいたその時が最後だった。


     明   正

 ヨウの次男の明正も変り者だった。世間の人からは社長さんなどと愛称されて
いたが、社長だったためしはない。母によると、終生定職をもたず、たまにどこ
からか骨董品を見つけてきて欲しいひとに売ったりしたが、なんとなく、どこか
で生きるための都合をつけてくる人物のようだった。のちに議員か市長になった
阿部五郎などと親しくて、左翼運動にもかかわり、新聞の発行を手伝ったりして
特高にあげられ、ブタ箱ぐらしをしたことがある。社長さんなどといわれたのは
この新聞をやったからだろうと、母から聞いたことがある。母は明正への差し入
れに警察に何度か足をはこんだそうだ。明正は能筆家で実にきれいな字を書く。
軍属として徴用されて、戦地からきたハガキが残っているが、カナ漢字交りの、
うならされるような字である。もともと、どうしようもないほど字が下手で、父
親の傘屋を継ぐようになったが、和傘には名前とか屋号を墨で大書する。この字
が書けないと、商売にならない。明正はこのため、寝てもさめても字を書くとい
うほど執中して腕を上げたという。しかし、字が書けるようになった頃、和傘は
こうもり傘に押されて、商売にならなくなり、やめてしまったわけである。明正
は、タラカン島という南の島で戦死した。ヨウは晩年、明正は自分の死後十三年
目に日本に帰ってくると予言したが、これは成就しなかった。


     転  居

 父はついに転居する決心を固めて、いまの鳴門市の知人の家の納屋を借りた。
 細長い十畳ほどが一間あるきりで、電灯もないところである。父はこの納屋に
自分で床を張った。ひさしを貸して母屋をとられる、とはこういうことかも知れ
ないが、五月さんとのトラブルにけりをつけられず、相手が出る気もない以上、
自分が家をでるしかないのであった。昭和二十年の十月頃だったろう。雲ひとつ
ない晴れた日、ヨウが大八車をどこかの農家で借りてきた。道具類は一切持って
歩けないので、父は荒木づくりの木箱をいくつかこしらえて衣類をつめこんだ。
大八車に積めるだけ積みこんでひもをかけると、ヨウは、ヨイショと大八車をひ
っぱって出発した。ヨウはひとりで大八車を、二十キロ近くある転居先まで、運
んでくれたのである。筆太郎の葬式の日、ぼくが始めて渡ったあの吉野川大橋を
祖母が箱ばかり積んだ大八車をひっぱって、日本てぬぐいで汗をぬぐいながら進
んでいる姿が、目に見えるようだ。どんな思いで、あの重い荷をひっぱってくれ
たことだろう。ぼくらは、佐古駅から汽車で発った。なべやおかまや、箱につめ
られなかった世帯道具を風呂敷につつんだり、遠足のリュックにつめて背負った
りして。幼い妹のミヤ子まで、手に風呂敷包みをさげていた。父や母が、どんな
顔をして、近所の人たちに挨拶をしたのだろうか。どんな表情で家をあとにした
のか思いだせない。しかし長年住みなれたわが家を、こんな形で跡にする父母の
心情は、察しがつく。戦後の食糧難の時代に、七人もの大家族が全く知らない土
地へ、こうして旅立った。小ぎくも一二三も、一子さんも泣きながら僕らを見送
った。五月さんはいなかった。


     高野山に入る

僕はいま大阪の南東部、和歌山との県境にちかい泉佐野市の、犬鳴山・七宝瀧
寺という寺の一室でこれを書いている。この連載が始まったのは三月だったが僕
は四月号を手にして間もなく、俗界から姿をくらまして密教の修行に入ったので
第八回までの原稿を四月初めに書きあげて、編集長に渡してあった。四月十五日
僕は高野山の奥深く、いまなお女人禁制、一般人には公開もしていない、真言宗
の秘密道場、円通律寺へと入山した。そこは高野山の事相講伝所で、真言宗の僧
侶を養成する専門道場の律院である。百三十五日間、八月三十日まで、修行のた
め世間とは交渉を断ってしまう。電話も手紙ももらえず、新聞もラジオもテレビ
も勿論ない。ひたすら修行に専念することになるの間、龍宮乙姫誌も手にできな
い。連載のことだから、活字になったのを読みたくもあり飯尾茂さんのイラスト
もどんなのを画いてくれているか、楽しみであるが九月までおあずけであった。
四ヶ月半の修行はながかった。人生の半ば以上を過してしまった僕の年令では、
限界だったのかも知れない。自分の精神力の弱さを、肉体的にもだが、思い知っ
た。知らされたというべきだろう。石にかじりつくという想いで、行は成満を迎
えたが、いまもって、右腕を痛めたりした後遺症に苦しんでいる。入山前日の四
月十四日。高野山へと僕は車で登った。光の海の第八回目は、その前日に渡した
ばかりで、まだ原稿を書いた余韻が躰をほてらしていた。僕が高野山へ着いたの
は夕暮にはまだ間のある時刻だったが、高野山の入口にある大門のところから、
僕は不思議な光景を見た。高野山から目路の果てまで連なる山々のはるか西の彼
方に、巨大な金色に輝くものが、ぽっかりと空中に浮んでいるのであるよく見る
と、茜色の夕陽が、雲の間から射しこんで、光を落し、はるかな和歌山の海が、
黄金色に染められているのである。まさしく、光の海、であった。だが、それは
単なる夕陽のいたずら、天候の気まぐれがひき起した自然の現象に過ぎなかった
ろうか。そうではあるまい。僕には、光の海という題名の連載が始まって、祖母
ヨウの事跡を文章にすることを喜こび、僕の、高野山での修行を祝福してくれる
なにかの巨きな意志の表われだとしか思えなかった。その後にも、修行の期間中
に、黄金の光による数度にわたる神秘体験をして、いよいよその確信を深めたが
そのことはいずれ、書く機会が得られるだろう。高野山での行が終えて一ヶ月。
四国や東北へ予定していた旅をしてきて、いま、縁あって、しばらく護摩行を手
伝うことになった七宝瀧寺へと行雲流水の如くやってきた。ここへ来て三日目の
夜、やっと、三月号からの連載を読み返し、いま十一月号の原稿にとりかかった
ところである。連載のほうは、一家をあげての流浪の始まりに至った。


     流浪の始まり

 住み慣れたわが家を背に、あてどのない地に移り住むのは、両親にとって、ど
んなにか決心を要することだったろう。無茶な話だと言えるだろう。父の決意に
対して、母は反対をしなかったろうか。複雑な思いを呑みこんで、困難な現実の
前に、つらい選択を強いられたのだろう。行先の困難よりも、当面する厄介な場
から、ひとまず避難することにしたのだろうか。自分の書いた幼少年時代の思い
出を、こうして読み返してみると、胸が熱くなる想いであるが、現時点でのわが
身の生き様をふり返ってみると、昭和二十年からの流浪の旅は、僕にとってまだ
終ってはいない。いく度目かの出発。定住し、安住し得ないのが僕の運命かも知
れない。僕の処女詩集「雨季」の跋で、友人の国分重男はこう書いている。
− しかし彼は「雨季」の詩をこう結んでいるのだ。
翌日からも
なおながい旅がつづくのだった。
くりかえされる出発があるだろう。
彼はおそらく、ここから始まる−−−と。

 僕の家族は、戦後のながい時代を、揺れ定まらなかった。多感な少年から青年
期へかけての人生経験は、悲惨の一語に集約できるかも知れない。生きることの
困難といつも向き合って、一日一日の糧を得て、一日一日をしのいできた。
あとで考えると、その困難が、僕を信仰へと導く最大の要因ではあろう。高野
山での修行を挟んで、五ヶ月半のブランクのあと、読み返し、再びペンをとる僕
の心は複雑な想いに充たされている。僕のきょうだいを除いて、この文章に登場
したひとびとは、みんないなくなった。人生とは、気がつくと、みんないなくな
ってしまうことである、といってもいい。いなくなってしまったひとたちに、僕
は修行しながら逢うことができた。六月二十四日、両手に数珠をくって数をとり
ながら、口にご宝号を唱えている時、順番にひとりづつ姿を現わした。みんな充
ち足りた顔をしていて、僕の方を静かに凝視めていた。何故か話はできなかった
が、行が終ったあと気がつくと、僕は泣き濡れていた。そんな経験も、信仰あっ
てのことだろう。これから先のことは、僕自身にもさっぱり分らないが、自分の
辿ってきたことは、もうしばらく書き進めることができる。


     新  居

 僕らの新居は、いまの鳴門市、撫養といふ町の金比羅前という国鉄の小さな駅
の前にあった。線路とプラットフォーム。駅前のちいさな広場。その広場に面し
て、二階建ての借家が数軒並んでいて、その借家と借家の間の細い露路を抜ける
と、その小屋はあった。大人が手を伸せば届きそうな低いトタン屋根で、板張り
の床だった。床は父がその小屋を借りる約束をしてから、自分で工事をして張っ
たものだ。電灯はなくてインキ壜を利用して父が小さなランプをこしらえた。
炊事場はなく、長屋の共同の水道から水を汲んできて、上り框のところへ爼を置
き軒下に七輪を置いて炊事をした。僕らがこの哀れな小屋に着いた時、姉が泣き
だしそうな顔をしたが、両親をおもんばかってこらえたようだ。まったく与えら
れたものに文句をつけても、良くなったためしはないのである。ヨウの大八車も
しばらくするとやってきた。ヨウは達者で足も速かったのだろう。ヨウは小屋を
見ても、驚いた様子もなく、泰然たる態度で、荷物をてきぱきと運んだ。ヨウは
帰る時、「博之、よく手伝ってな」と僕に励ますように言うと、振り返りもせず
に去ってしまった。「よく手伝って」ということばのなかに、愛娘に対する想い
がこめられていた。ヨウはこの時、その後の僕らの流浪のながい暮しを見透して
いたのだ。金比羅前の駅には、鳴門高校への通学の生徒が沢山下りた。僕と弟の
司郎も、小学校へ転校して通学を始めた。僕が四年生で、司郎は二年生だった。
 姉は家庭の事情の困難を見かねて、女学校を中退し、貯金局へ勤めはじめてい
た。その頃、父に仕事の口はなかったのだろう。前の長屋に多賀という家があっ
て、高等部二年になる幸ちゃんという少年がいた。幸ちゃんは、書道がうまく、
利発で、成績は一番だということだった。けんかも強くて幸ちゃんに逆らう奴は
いなかった。幸ちゃんはいろんなことに通じている不思議な少年でもあった。

 その頃、どこの家でも燃料にタドンをこしらえていた。タドンというのは、ま
きを燃やした消炭を粉にして、練りあげた土に交ぜて、にぎりめしほどの大きさ
に丸め、陽に乾かして、燃料とするのである。幸ちゃんの家の前にも、プラット
フォームの石積みの前にも、近所の人がこしらえたタドンが沢山干してあった。
幸ちゃんは、僕によく乾いたのを持ってくるようにいい、もってくると、タド
ンを握って、ピッチングの練習をしているように、タドンをプラットフォームの
石積みに勢いよく投球した。ぼん!と黒煙があがって、手投げ弾でなにかを攻撃
しているみたいだった。幸ちゃんは、僕にもやってみろ、といったが、僕は尻込
みしていた。「恐くないよこれはうちので、おれがこしらえた奴だからさ」と幸
ちゃんが言うので、僕も思い切って投球した。それは面白い遊びだった。一箱空
になるころ、幸ちゃんが逃げろ、というので、見ると家主のおじいさんがやって
くるところだった。ふたりで逃げたが、あとから母に叱られてしまった。僕だけ
見つかって、言いつけられたようだ。しかし、僕らは大の仲良しで、いつも一緒
に行動した。幸ちゃんは鳴門高校の生徒たちにも睨みをきかせていた。彼の姿を
見ると、登下校の生徒たちは、必ず足をとめて様子を見た。幸ちゃんは面白がっ
て僕に追っかけてやれ、といったが、そんなことをするのは好きではない、と強
く言うと、それからはそんなことはしなくなった。ある日、幸ちゃんが、お母さ
んに何か袋を借りて来いというので、小さな布の袋をもってくると「もっと大き
な奴だ」と自分のを見せた。ドンゴロスの大きな袋をもっていた。僕が米袋を借
りてくると「それでいい、ついてこい」と塩田のある方へ連れていった。「何を
するの」と聞いても、「来れば分る」という。「悪いことはしたくないよ」とい
うと「心配いらん。お母さんが喜こぶよ」という。その頃の鳴門は、塩田と梨畑
それに芋畑が多かった。薩摩芋畑と塩田とは、同じ砂地で、となり合っていた。
幸ちゃんは竹のへらを二本もってきていて、一本僕に貸してくれた。「よく見て
いな」と幸ちゃんは何もない掘り返して放置してある芋畑へ入ると、「あった」
といって指差した。薩摩芋の新芽が、砂の中から覗いていた。竹べらを差しこむ
と、大きな奴がごろりと簡単に姿を現わした。落ち芋拾いである。僕は夢中にな
って目をこらし堀りはじめた。新芽は面白いほど見付かった。たちまち袋は一杯
になった。食糧の乏しい時代であった。幸ちゃんと僕と弟は、大国主命のように
袋をかついで毎日一度はぶらりとでかけた。低い小屋の屋根に干し芋が沢山、母
の手で並べられていた。


     
     しあわせへの願望

 この世に生を享けたものは、しあわせを願う。いのちというものは、しあわせ
でありたいという願望を持っている。人間に限らない。動植物の全て、どんなち
いさな生きものも、しあわせであろうと努力して身を守っている。自ら破滅を願
うような生きものはいない。おそらく人間を除いては−と書いてもいいかも知れ
ない側面を、人間は持っているが、われわれに与えられている、いのちそのもの
は、しあわせであろうとしているのである。一九九九年の年、第七の月、空から
恐怖の大王が降りてくる−−という、ノストラダムスの予言などは、核戦争のこ
とではないかとか、大気汚染によって、地球が壊滅の危機にさらされるのか、あ
るいは他の天体が衝突するようなことが起きるのか、いろいろ想像はできるけれ
ども、それはもし予言どおりのことが起きたら、という仮定のもとになされる単
なる想像にすぎない。僕はその年のその日になっても何も起こらない、というこ
とに確信をもっている。ひとりひとりの人間が、しあわせであろうとして努力し
ている。しかし、人類というものは、何もかも滅びてしまえ、という方向に向っ
て努力しているというようなことはあり得ない。ものごとは、良い方に向う、と
いうバランス感覚は天与の摂理である、と僕はいつも信じているし、そういう方
向で、歴史は進んできているといって間違いではない。西洋は没落したといわれ
て久しいが、人類は二十世紀末葉に至ったいま、科学文明の華を手にして、それ
を人間のしあわせだけでなく、生きとし生けるすべてのものがしあわせであるよ
うに、有用なものとして駆使し得る時代のスタートラインに立ったばかりのところである。二十世紀に急速度で発展してきた科学文明は、これから真に有用な有益
なものとなっていく。楽しむのはいまからである。多くの宗教家や自然志向家た
ちが、この世の終末が直前にやってきているような危機感をあおるのはナンセン
スである。この文明にたっぷりと浴し、数々の恩恵を享受しながら、いとも簡単
に全部を否定してしまうような文明批判は批判とは言えないのだ。良きもの、悪
しきものについて、しっかりと弁別する眼をもってものを言いたいものである。
いたずらに否定的な考えを世に広めても益するところは少い。ネガティブ (陰性
の) な想念は人生を暗くするだけである。公害をなくすため自動車に乗るのはや
めようというスローガンを、自分の自動車のボディに大書して、街を走っている
みたいなものである。


転  々

 この連載も、ひとまず僕の少年時代、徳島を発つところで終ろうとしている。
鳴門で芋を拾って過してから、転々と居を変えた。徳島で三回。終戦の翌年には
大阪へと居を移した。大阪で小学校を卒業するまでに三回転居し転校は五回に及
んだ。敗戦後の混乱をきわめた時代、食糧難住宅難のなか、大阪で生まれた二人
の弟妹を含めて、九人の大家族が生きてゆくのは困難をきわめた。小学校を卒業
してから転居は三回。母は九回目の転居先で世を去った。


 父

 僕らの家族は父が生活意欲を失ってアル中になるまではそれでも明るかった。
南河内郡狭山村に、社宅付の家具工場があって、そこが大阪の最初の住居にな
った。社宅といっても、コンクリートパネルを打ちつけた飯場で、隙間風の防ぎ
ようもない粗末な小屋だったが、夜になると父が三味線をもちだして、よしこの
を弾き、家族で阿波踊りにうち興じて、楽しんだりして、近所の人も毎夜それを
見物にやってきたりした。しかし、父は転居中に木箱で胸を強く打ったことが原
因となって、力の要る仕事ができなくなった。暗いけわしい顔になり、怒りっぽ
くなって、家のなかは次第に暗くなっていった。転々と居を移すごとに、父はア
ルコールに傾斜していった。彼はままならぬ人生、自分の運命を呪って、怒鳴り
散らし、咆哮した。父は逆境に勝つすべを知らなかった。歯ぎしりをし、地団太
を踏んで、妻や子に当たり散らした。父は自分の運命を受け入れたくなかったの
だ。自分のそうした行為が、家庭を地獄に変えていることに思い至らなかった。
和を以て貴しとす、とは聖徳太子のことばだが、時折、父が機嫌がよくて、家族
が団欒をもつような時、僕は胸が熱くなってよく涙ぐんだ。だが、そうした団欒
の途中でも、不意にささいなことで怒り狂いだしたりするのである。父はしあわ
せを望んでいた。それを家族に与えたかった。しかし父の考えるしあわせのため
には、気力も体力も、もっと必要としたのだろう。彼の思いを阻害したのは病気
であり、もともと不運な星のもとに生まれついた宿命だと考えて、これを好転さ
せる方法を見付けられなかった。病気であってもいいではないか。自分の運命を
受け入れて、もっと和やかな気持で父が毎日を送ったのだったら、貧困などは少
しもしあわせの妨げになるものではないのだ。母も子供たちもよくそのことを知
っていた。知らなかったのは父だけである。


     短  冊

 僕は小学校の五年生の終り頃から働きはじめた。六年生の時は時折学校へ顔を
だした。卒業式にもでていない。卒業証書は、同級生の朝鮮人の仲良しだった広
瀬君が届けてくれた。僕は新制中学ができて二年目の時だから中学は義務教育に
なっていた。しかし、中学には行かなかった。小学校の担任武藤甚太郎という先
生が父を説得しに何度か家にやってきた。しかし、どうにもやりようはなかった
のだ。武藤先生は短冊に、
わが説きし まこと守りて 一筋につとめ励みて 国おこせかし
という短歌を書いて記念にくれた。昭和四七年に、僕は詩人の日高てるさんと話
していて、六年生の時の担任が、武藤先生だったという話をすると、日高さんは
びっくりされて、武藤先生は国語を教えることにかけては右にでる人はないとい
われている有名な先生で、親しくしていること。いまは退職して元気でいられる
ことなどを知り、日高さんに伴なわれて、武藤先生と二十数年ぶりに再会した。
先生は僕のことを覚えてはいられなかった。日高さんから連絡を受けて、卒業写
真なども調べられたが、あいにく僕は写ってはいなかった。僕が、卒業時に頂い
た短歌の暗誦をすると、ひどく驚かれ、また書いて頂いた。昔と同じきれいな字
だった


     光 の 海

 祖母ヨウが死んだのは、僕が二十五才の時であった。その時、僕は生れて始め
て半年ほど家をはなれて、児童劇団で芝居をしていた。その前年、父を二回も精
神病院に送りこんだりして、僕もぼろぼろになりかけていた。父が酒乱になって
から十五年。母も年の割にすっかり老けていたが、仕立物を一日たりとも中断せ
ず精出していた。僕は夜学に通っていたが、あと少しで卒業というところで、教
師と衝突して退学した。そして演劇の世界に入っていたのである。
ヨウが死んだのを知ったのは久留米にいた時である。母は祖母の死後、僕にす
ぐ便りを書いてくれたが、それを受け取ったのは二十日後のことであった。雨季
だった。その年の雨季は九州各地に被害をもたらし、僕らの劇団が芝居をして、
その翌日にその学校が鉄砲水に押し流された、などということもあった。母の手
紙をくり返し読んで、祖母のことに恩念を集中した。祖母はまもなく現われた。
ヨウは、後手に手を組んで、胸をはってお花畑のなかを歩いていた。そこはヨウ
がくり返し僕に話してくれたあの場所に違いなかった。僕はヨウの近くには近付
けなかった。ヨウは僕のほうを向くと、ゆっくりとうなずいてから二度とふり返
らず、遠ざかっていった。ヨウの行方にまばゆい光が射していて、ヨウが遠ざか
るにつれその光の海はかがやきを増していった。
 僕が高野山へ入山する前日に見た光の海は僕が久留米の宿で数時間、祖母に思
念を凝らした時に見たものだったかも知れない。
 この連載を書き始めて、ヨウの祀られている明宝神社、岩川神社を訪れた今年
の春には、鳥居もあって、神域らしい雰囲気に整備されていたが、高野山での修
行を終えて、九月の初め、そこへ行ってみると、鳥居はとり払われ、神社はなく
なっていた。すぐそばの物置に社が二つ入れられ、あたりは草ぼうぼうだった。
十月二六日。七宝瀧寺に、ある霊能者が現われ、僕といろいろ話をした折、ヨウ
が信仰していたのは女神であること。その女神が、その霊能者を通して、僕に語
ったのは、いままでの僕の苦労は、その女神の計画で、僕に必要な修行をさせた
こと。いまの僕に女神の技をヨウのように発揮すべき時が直前にきていること。
ヨウも、父も母も、そのことを待望しているから怠らず励むべし、ということで
あった。もはやバトンは僕に渡されたため、あの神社は姿を消したのだろうか。


     スタートライン

 ここから先のことは僕には分らない。だが、僕は僕に与えられたいのちのある
間に、生きとし生けるいのちあるものの、しあわせのために、なにごとかをしな
くてはならないのだろう。その場がぼくに与えられるだろうことは、早くから予
感している。そういう想いを僕が持つに至ったのは神が僕にそう意志させたから
ではない。父の弱さ故に生じた暴と、それにひたすら耐えて生き抜き死んでいっ
た母の献身、そういうものを余儀なく生じさせた時代が、環境が、僕を育ててく
れたのである。奇妙なマルチ人間に。これらの経験が、トータルに活用できずし
て人生の磨礪を舐めてきた意味はないとほんとうにそう思うのだ。ゴールではな
いスタートラインにいま立ったばかりだ。
          ( 終 )






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